与謝野晶子・・・情熱の詩人。
与謝野鉄幹と結婚するまでは鳳晶子(ほお あきこ)ですが、話が複雑になるので、与謝野晶子で通します。

奪略結婚ですが、最後まで一途に愛し抜き尽くしています。ここまでできるかと思うほど鉄幹に尽くした愛!

与謝野晶子は1921年(大正8年)、建築家の村伊作、画家の石井拍亭、夫の与謝野鉄幹らと共に、お茶の水駿河台に文化学院を創設し、男女平等教育をうたい日本初の男女共学を成立させました。まさに現代の男女共同参画の先駆者でもあるのです。

与謝野晶子は「源氏物語」などの古典文学を、わかりやすく現代語に訳しました。まず「日本古典全集」から刊行しています。その他に「和泉式部全集」「現代語訳平安朝女流日記」「新訳源氏物語」などがあります。

1901年(明治34年)に、与謝野晶子の短歌集「みだれ髪」が初出版され、賛否両論を巻き起こしました。「絶賛」した若き文学青年たちからは圧倒的な支持を得ています。「酷評」したのは頭の固い旧派の詩人たち。

詩人の上田敏などは「明星」誌上で称賛していましたし、石川啄木、北原白秋、萩原朔太郎など多くの文学青年たちは、熱狂的に与謝野晶子を支持しました。中には激しい非難を浴びせる人もいましたが、そのほとんどは旧派だと言われています。

そして「君死にたまうことなかれ」は、戦地(日露戦争)に赴いた弟を案じて読んだもの。
内容は「戦争で弟が命を落とさないかと案じ、1日も早く帰って来て欲しい」と祈る気持ちを読んだものですが、戦時中ですから「与謝野晶子は反国家主義者だ!」「非国民だ!」との声が多かったそうです。

しかし歌を詠んだ心情は、ある時は老いた母の心でもあり、または若い妻の心でもあり、弟を思う姉の心でしたから、多くの女性の共感を呼び、だんだん理解されるようになり、いつしか名詩として位置づけられるようになった歌集です。

みだれ髪が出版される1年前はまだ、与謝野晶子は大阪府堺市の実家にいました。そんなある日、関西で「文学会」を開催するためにやってきた、与謝野鉄幹にめぐり合うのです。明治33年8月のことでした。

文学美術雑誌「明星」を主催していた詩人の与謝野鉄幹が開催した「文学会」で、与謝野晶子は一目惚れをしてしまったのです。すでに活躍していた与謝野鉄幹は、スマートな容姿に機知に富んだ話術で、人を惹きつける魅力が溢れていました。

与謝野晶子は以前から、与謝野鉄幹のことを短歌に詠んでいたのですが、それを目にした与謝野鉄幹も、「明星」に与謝野晶子の才能を引き込みたいと思っていたのです。

運命の糸・・・に引き寄せられるかのように、与謝野晶子と与謝野鉄幹は「文学会」で出会い、お互いに惹かれ合ってしまいました。しかし、時すでに遅し・・・与謝野鉄幹には妻子がありました。

妻子があると知った与謝野晶子は「妻子があっても好きな人は好き。だから諦めない!」と、悩むことなく実家を飛び出し、与謝野鉄幹を追いかけて上京したのが1901年(明治34年)6月。「不倫」なんて言葉は、与謝野晶子の脳裏には浮かぶことさえなかったでしょう。

しかし『みだれ髪』の評判で「明星」の購読者、同人数は一気に増えました。与謝野晶子はその後、鉄幹の元に集まって来た人々から様々な情報を得て、評論活動なども含めて執筆の幅をどんどん広げていきました。

後には与謝野鉄幹と結婚することになるのですが、与謝野晶子はどのようなところで生まれ育ち、鉄幹と結婚に至るのか・・・道筋を辿って行こうと思います。

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与謝野晶子の生い立ち!与謝野鉄幹と不倫の後に結婚!

明治11年に生まれた与謝野晶子の青春時代は、封建時代の真っ只中だったはず。しかし与謝野晶子は、今の時代に生きるわたしたちのように、自由な発想の持ち主だったのですね。

この頃は、男の子にはお金をかけても、女の子は目をかけてもらえない時代でした。何故なら、

  • 女の子は大人になれば嫁に行く。
  • 嫁ぎ先の働きてになり、実家のために金銭をもたらしてはくれない。
  • 男子は出世するが女子は出世することは無い。

そんな考えかたが当たり前の時代だったのです。
しかし、与謝野晶子の実家は和菓子屋を営んでいて、ゆとりのある暮らしをしていたのでしょう。与謝野晶子は家業を手伝うことはありましたが、女学校に通っていました。

頭が良かった与謝野晶子は「漢学・朱子学・儒学」を学んでいたそうです。何だか難しそうに聞こえますが、現在の道徳・倫理・社会などと同じ内容です。また、琴や三味線なども習っていたそうですから、かなり裕福な家庭だったのでしょう。

家業の和菓子屋は、与謝野晶子が生まれた頃から傾きつつあったようですが、それでも与謝野晶子にはしっかりと教養を身につけさせていました。ただ、男兄弟ほどには目をかけられていなかったと言います。

女学校時代は、家業の和菓子屋を手伝いながら、「源氏物語」や「樋口一葉」などの書籍を読みふけり、特に正岡子規の短歌にはかなり刺激を受けていたらしく、10代の頃から短歌の創作をはじめていました。

与謝野晶子の短歌が文学美術雑誌「明星」に掲載されたのは22才の時ですが、当時「明星」は多くの若者に支持されていた雑誌で、浪漫主義がテーマであり、感情や作者の主観に重点をおいていました。

雑誌「明星」をもっと多くの人たちに知ってもらうため、与謝野鉄幹は「文学会」を開催する関西にやってきました。すでに活躍していた与謝野鉄幹は、スマートな容姿と機知に富んだ話術で、人々を惹きつける魅力が溢れている男性でした。

そんな与謝野鉄幹に一目惚れしてしまった晶子ですが、与謝野鉄幹もまた「明星」に掲載された与謝野晶子の歌をみて、「明星」に晶子の才能を引き込みたいと思って注目していたので、「文学会」で出会った2人は当たり前のように、お互いに惹かれ合ってしまうのです。それが1900年(明治33年)8月のこと。

与謝野鉄幹には妻子があると知っても尚、「妻子があっても好きな人は好き。だから諦めない!」と、全く悩むことなどなかった与謝野晶子。与謝野鉄幹の面影が全てを占めていて、他のことなど気にもとめなかったのかも知れません。

与謝野晶子は1901年(明治34年)4月に実家を飛び出し、与謝野鉄幹を追いかけて上京。「不倫」なんて言葉は、与謝野晶子の脳裏には浮かぶことさえなかったのかも知れません。不倫はお勧めできませんが、愛に向かって突進できる情熱とバイタリティの凄さは羨ましい!

上京後わずか2か月で初刊となる歌集「みだれ髪」を出版。与謝野晶子22才、与謝野鉄幹28才の時でした。女性が性愛をあからさまに表現するなどあり得ない時代に、官能をおおらかに表現する、情熱的な描写が多い歌集「みだれ髪」は賛否両論がありました。

しかし酷評したのは旧派の歌人ばかりで、若い文学者たちはこぞって与謝野晶子を支持しています。「みだれ髪」の発表で、文学美術雑誌「明星」の購読者は急増です。

与謝野鉄幹は「みだれ髪」の発表から2か月後に離婚しました。そして与謝野晶子は、思いを寄せ続けた与謝野鉄幹と結婚したのです。

与謝野鉄幹との極貧生活を支え続けた与謝野晶子!

結婚後、与謝野晶子は現在の東京都渋谷の道玄坂に当たる場所にあった鉄幹の家に、住まいを移しています。渋谷とはいえ、当時は東京の中でも西の外れの田舎で、周囲は雑木林や畑地に囲まれていました。

渋谷で新婚生活を送りましたが、中流家庭である程度の裕福な生活をしていた与謝野晶子にとって、鉄幹との生活は貧しくて、かなり苦労したものと思われます。

• 雑誌「明星」を発行しているとはいえ、詩人である与謝野鉄幹の収入はごくわずか。
• 食事は一汁一菜のみだったそうです。

当初は、与謝野晶子が実家から持って来た着物を売っては生活費を工面していましたが、間もなく売るべき着物もなくなってしまい極貧生活に。

与謝野晶子は、詩人の収入は少ないと知っていたため、鉄幹との生活は貧しいだろうと予想して覚悟を決めていましたが、夫婦生活は予想を大きく上回る貧しさでした。それでも何とかやりくりして、鉄幹との結婚生活を支えていたのです。

夫婦仲は大変良好で、最終的には12人の子どもにも恵まれています。与謝野晶子は、雑誌「明星」からデビューした明星派で浪漫主義の歌人として作品を発表し続けました。

与謝野晶子は、歌人であり、作家でもあり、思想家でした。
1901年、女性が性愛をあからさまに表現するなどあり得ない時代に、官能をのびのびと詠いあげるような情熱的な作品も多い歌集『みだれ髪』を発表しました。また、日露戦争の最中に『君死にたまふことなかれ』を詠み、「源氏物語」の現代語訳でも知られた存在です。

与謝野晶子の目覚ましい活躍!落ち目の鉄幹をとことん支えた!

文壇で注目される存在となった与謝野晶子の蔭で、夫の鉄幹は注目されることもなく落ちていくばかりで、とうとう稼ぎのない亭主と成り、ひものような存在にまで落ちてしまったのです。

時代の女流作家たちとともに増々もてはやされ、人気が高くなる与謝野晶子。夫の鉄幹はそんな晶子をみてひがんでばかりいました。挙句には、「ヨーロッパに行きたい」などと言い出す始末。

現在のように飛行機で簡単に行けるような時代ではありません。明治時代の海外旅行は船で1ヶ月近くもかかる長旅ですから、渡航費や滞在費など相当高額だったと思われます。

この頃には与謝野晶子と鉄幹の間に、幼い子どもが7人もいたのです。いくら晶子が人気が高く稼ぎがあっても、一家9人を養っているのですから生活に余裕なんてありません。

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ところが与謝野晶子は、夫鉄幹をヨーロッパへと送り出したのです。しかも、すぐに淋しくなり鉄幹に会いたくて、幼い7人の子供を残して鉄幹の後を追い、ヨーロッパに渡っています。ただ鉄幹に会いたい一心で・・・7人もの子供がいる母親ではなく恋する乙女に戻っていました。

子供を7人も残して海外に行くなど、それだけでも普通ではとても考えられない驚くべき行動ですが、与謝野晶子が「子供がいたんだ」と思い出したのは、鉄幹と2人で数か月もの間、欧州を旅してからだったと言うのですから、驚きを通り越し「絶句」・・・

帰国した与謝野晶子は、ますます活動の場を広げ精力的に仕事をこなしていきますが、その頃になると、夫鉄幹は仕事もせず、家に帰らない日々が続きました。それでも尚、与謝野晶子は「詩人の夫をぞんざいに働かせたくない」と夫を擁護していました。

与謝野晶子は、なぜここまで献身的に夫を支え続けたのでしょうか。おそらく前妻から奪略し、実家の両親を捨ててまで成就させた結婚ですから、相当な覚悟があったことでしょう。しかしそれ以上に、夫鉄幹を愛していたからこそ、最後まで尽くせたのだと思います。

海外旅行を通じ欧米の男女平等の考え方に感化!

情熱の詩人与謝野晶子の一途な愛に支えられて、鉄幹も、働かないぐうたら夫から見事に立ち直っています。

スランプで作品が作れないと悩んでいた無収入の夫鉄幹。「留学して勉強し直せばいい。お金は私が用意するから」と。貧しい生活にもかかわらず、鉄幹を留学させたのですから驚きますよね。

そしてまた与謝野晶子は、自らも「フランスに行って勉強したい!」と思いはじめ、渡航経験のある文豪の森鴎外に頼み込み渡航費を工面して貰い、1912年(明治45)日本を飛び立ちました。

その時まさに、読売新聞が「新しい女」という連載を開始しようとしていました。そして、パリに出発しようとする与謝野晶子を取り上げ、記念すべき連載の第1回目として掲載。その日、与謝野晶子を見送りに来たのが、平塚らいてうを始めとした約500人もの人々だったそうです。

1912年5月19日に無事フランスに到着した与謝野晶子は、夫鉄幹と共に、イギリス・オーストリア・オランダ・ドイツ・ベルギーなど、次々訪れました。

4カ月後に揃って帰国した頃には、2人とも欧米の男女平等に感化され、与謝野晶子と鉄幹は、協力して執筆した書籍の中で、「一番必要なのは教育の自由という権利だ」と意見をのべ、その後、評論家としても名を連ねています。

そして1921年(大正8年)に与謝野晶子は、建築家の村伊作、画家の石井拍亭、夫の与謝野鉄幹らと共に、お茶の水駿河台に文化学院を創設し、男女平等教育をうたい日本初の男女共学を成立させました。男女平等を考えた先駆者と言えるかもしれません。

与謝野鉄幹は文学雑誌や歌集を発売しますが、なかなか売れ行きは伸びません。しかし、2人は力を合わせて仕事に取り組み頑張り続けました。1919年(大正8年)のこと、ついに与謝野鉄幹に春が訪れました。慶應義塾大学文学部教授として招かれたのです。

留学経験がプラスに働いたとも考えられますね。慶應義塾大学文学部教授となって生活も安定し、貧乏生活からようやく抜け出すことが出来ました。

その3年後1921年(大正10年)に、第2次『明星』を創刊し、翌年には森鴎外全集刊行会の編集主任についています。与謝野晶子はこの頃から、生活のためではなく自分の好きなことを執筆しようと思い立ちます。

今まで通りに短歌は作りますが、大好きな日本古典の現代語訳や解説、そして評論を執筆しています。その当時は「源氏物語」の現代語訳は既に出版されていましたが、ある程度の教養がないと理解できないような、難解な文章で書かれたものでした。

与謝野晶子は「古典文学を多くの人々に読んでほしい」との思いがあり、誰にでも読めるような現代語訳を書くことにしたのです。1923年(大正12年)の関東大震災で、懸命に書き続けた原稿が1000枚も消えてしまいました。それでも尚、与謝野晶子の情熱の炎は消えなかったのです。

与謝野晶子の思いを受け止めた鉄幹も協力し、1924年(大正14年)に「日本古典全集」の刊行開始。そして「和泉式部全集」「現代語訳平安朝女流日記」「新新訳源氏物語」も刊行されました。

まとめ

与謝野晶子が愛し続けた夫の与謝野鉄幹は、1935年(昭和10年)3月25日に肺炎で亡くなっています。

その後、与謝野晶子が渋谷から東京都杉並区荻窪に新居を建てて引っ越したのは1927年(昭和12年)でした。そしてあちこち旅行しながら、旅先でも次々と歌を詠みましたが、歌は5万を超えています。

与謝野晶子は温泉巡りが大好きだったらしく、彼女は全国の温泉地を旅行しています。それも有名どころの温泉だけではなく、「こんな秘境の温泉に来たの⁉︎」と驚くような場所にも行ったそうですよ。

鉄幹亡きあとも、与謝野晶子は作品を執筆し続けましたが、1942年5月29日、脳溢血により63年の生涯を閉じました。奪略結婚でしたが、鉄幹を最後まで愛して尽くし続けた人生でした。

最後まで愛された鉄幹はとても幸せな方だし、また、1人の男性を徹底的に愛し続けることが出来た与謝野晶子もまた、苦労は多かったけれど幸せな人生だったと言えるでしょう。

夫の鉄幹が大学教授になるまでは稼ぎが良くなかったため、晶子は仕事の依頼をすべて引き受け、新聞七紙への寄稿に加えて、他にも小説や論文などを書いていたのです。その上12人の子供たちの世話もあり、想像を絶するような生活を続けていました。

精神も、肉体も強固でなければ出来なかったでしょう。
超人的な精神力と強固な肉体の持ち主だったと思います。

与謝野晶子は1878年(明治11)12月7日、現在の大阪府堺市堺区甲斐町西1丁目で生まれ、1942年(昭和17年)5月29日、63年の生涯を閉じました。

63年間休むことなく働き、熱い情熱を抱いたまま、遥かな宇宙へ旅立っています。一生をかけて愛し続けた鉄幹に再びめぐり逢い、今もどこかで、歌を詠み続けていることでしょう。

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