あなたは、ミステリー・・・推理小説はお好きでしょうか。
海外には著名な推理作家が多いですね。名前をあげればきりがないほど・・・

アガサ・クリスティー  :エリキュール・ポアロ シリーズとミス・マープル シリーズ。
アーサー・コナンドイル :シャーロック・ホームズ シリーズ。
レイモンド・チャンドラー:フィリップ・マーロウ シリーズ。
エドガーアラン・ポー  :オーギスト・ジュパン。
エラリー・クイーン   :Yの悲劇。
ジェフリー ディーヴァー  :リンカーン・ライムシリーズ。
モーリス・ルブラン   :怪盗ルパン。
E・C・ベントリー   :フィリップ・トレンド。

人はそれぞれ、好きな作家や好きな推理小説があるでしょう。でもわたしは、何を読んでも「やはりミステリーは面白い!」と思います。上記に挙げた作者の作品は特に好きですね。

その中から今回は、ミステリーの女王と呼ばれたアガサ・クリスティーは、どのような方だったのか、またどのような生活をされていたのか、調べてみたいと思います。

もちろん、他の推理作家や名作ミステリー小説も、どんどん調べたいと思っています。アーサー・コナンドイルやレイモンド・チャンドラーをはじめ、多くの作家を調べたいですね。。

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アガサ・クリスティー生い立ち!結婚するまでの暮らし!

次女で末っ子のアガサ・クリスティ―が生まれたのは、デヴォン州トーキーでした。

父:フレデリック・アルヴァ。
母:ミラー・クララ・ベーマー。
次女として生まれたアガサ・クリスティーは、3人姉弟の末っ子。
姉や兄とは10才以上も年が離れていました。

アガサ・クリスティー本人の言葉によれば、とても幸せな子供時代を送った・・・と。
幼少時代は、自宅とロンドン西部にある継祖母の家を、行ったり来たりしながら育っています。

アガサ・クリスティーは、兄や姉のように学校で学ぶことができませんでした。母のクララが許可しなかったのです。そして家庭で読み書きを教え、アガサ・クリスティーが大好きだった算術や、音楽も教えたので、ピアノもマンドリンも弾けるようになりました。

ただ、10才以上も年上の姉や兄とは遊べず、周りは使用人とペットだけで、他の子供たちと遊ぶこともない子供時代、大の読書好きだったアガサ・クリスティーは、「若草物語」などの児童書や冒険小説を読みふける毎日を過ごしています。

少し成長すると、アガサ・クリスティーは友人もでき、演劇サークルに入りました。
アガサ・クリスティーが11才になった1901年、病気がちで何度も心筋梗塞を起こした父が死去。

父が亡くなった翌年の1902年、トーキーにある女学校に入りますが、アガサ・クリスティーは、規律を重んじる堅苦しい校風に最後までなじめなかったようです。

1905年にはパリで3つの学校教育を受けていますが、最後の学校はフィニッシング・スクールでした。フィニッシングスクールは、主に上流階級や富裕層の若い女性に、礼儀作法・テーブルマナー・ハウスキーピングについて教えるところでした。

アガサ・クリスティーが、物を書くことに興味を覚えたのは、母の一言がきっかけ。ある時、風邪をひきベットから出られず退屈していたら「何か書き物でもすれば・・・」と母が提案。

それ以後アガサ・クリスティーは、詩や短編小説を書いていましたが、探偵小説が好きで、ウィルキー・コリンズの「白衣の女」やコナン・ドイルのシャーロック・ホームズものを愛読していたのです。

そのころの探偵小説は、犯人がすぐにわかってしまう内容が多く、うんざりしていたアガサ・クリスティーは、自分で探偵小説を書くようになりました

体調が悪かった母のため、暖かいカイロでしばらく過ごしていますが、アガサ・クリスティーは結婚相手を探す目的で、母と共に多くの社交イベントに参加。ピラミッドの観光もしましたが、この時は考古学にほとんど興味がありませんでした。

1909年 、19才の時に「砂漠の雪」と言う長編小説を書いていますが、何処からも出版されていません。その後も執筆活動を続けながら、何年も結婚相手を探し続け4人と交際。1人は婚約まで行きましたが結婚には至りませんでした。

そんなある日、クリフォード卿夫妻の邸宅で開かれたダンス・パーティーで、アガサ・クリスティーは、アーチボルド・クリスティと出会いたちまち恋に落ちたのです。アーチボルド・クリスティは、凄いイケメンだったらしいですよ。

アーチボルド・クリスティはイギリス空軍に入隊し、1912年からデヴォン州に駐屯していました。ファーンボロへの転属が決まった時アガサ・クリスティ―にプロポーズして婚約。

この年、第一次世界大戦が開戦し、アーチボルド・クリスティーは、ドイツ軍と戦うためフランスに送られますが、一時帰国を許され、アガサ・クリスティーとロンドンで落ち会います。そして2人は、1914年クリスマス・イヴの午後に結婚。アガサ・クリスティーは24才でした。

第一次世界大戦(略称WWI)は、1914年7月28日~1918年11月11日にかけて、連合国対中央同盟国の戦闘により繰り広げられました。7千万以上の軍人(うちヨーロッパ人は6千万)が動員され、史上最大の戦争になっています。

短いハネムーンをトーキーのグランド・ホテルで過ごし、アーチボルド・クリスティはフランスに戻りました。その後も二人は、アーチボルドが帰国を許されるたびに再会すると言う繰り返しです。

1918年1月にアーチボルド・クリスティが空軍省(Air Ministry)の大佐としてロンドンに落ち着いたとき、ようやく二人の、本当の結婚生活が始まったのです。

毒物に囲まれた環境から自然の流れで推理作家に!結婚生活は充実!

アーチボルド・クリスティがフランスにいる間は、アガサ・クリスティ―も傷病兵看護のボランティアに志願し、トーキーの赤十字病院で負傷兵の手当をしていました。

アガサ・クリスティ―は、初めて手術に立ち会った時、負傷兵の皮膚にメスが入れられ血を見た途端に失神してしまったそうです。

しかし血を見ることにもすぐに慣れて、切断手術後の後片付けという任務に震える若い看護師に代わり、床の血をモップで掃除し、切断された脚を焼却炉に運べるようになりました。凄いですね!

アガサ・クリスティ―は、1914年10月~1916年12月までの間に、3400時間も無給で看護労働をしたのです。そして薬剤部に配属され、1918年9月に任務を終えるまで、薬剤師として年棒16ポンドの報酬を与えられました。

薬剤部は看護の仕事に比べると退屈だったそうですが、アガサ・クリスティーは、薬や毒物についての詳しい知識を身につけることができたのです。報酬は安くても、実践で薬科大学以上の勉強をしたようなものですよね。

アガサ・クリスティーは暇ができると、探偵小説を書くことを考えるようになっていました。「毒物に囲まれていたから、毒物による死が思い浮かんだのは、私にとっては自然なことだった」と。

アガサ・クリスティーは1916年に、最初の長編小説「スタイルズ荘の怪事件」を書き上げました。
主人公は、卵型の頭に、洗練された大きな口ひげを蓄えたベルギー人で元警察官。

ドイツ軍に侵攻されたベルギーから、イギリスに逃れてきていたエルキュール・ポアロが主人公。ポアロのモデルになったのは、トーキーに実在したベルギー人避難民でした。

アガサ・クリスティーは、「スタイルズ荘の怪事件」草稿を保管していたボドリー・ヘッド社が、「結末を変えるなら受け入れる」と連絡してきたので契約。

ただ後になって、その契約は搾取的だったと感じたため、出版社を変えたと言われていますが、でも・・・「スタイルズ荘の怪事件」は1920年に、ボドリー・ヘッド社から出版されているのです?

1918年1月に、アーチボルド・クリスティが空軍省(Air Ministry)の大佐としてロンドンに戻った時、2人はロンドン北西部のフラットに住居を定めました。

1919年8月5日、29才の時トーキーの実家で娘のロザリンドを産みました。
1920年 :処女作「スタイルズ荘の怪事件」を出版し、ミステリー作家としてデビュー。

1922年1月20日アガサ・クリスティーは、夫のアーチボルド・クリスティと共に世界旅行に旅立ちました。夫は、友人ベルチャー大尉から、大英帝国博覧会(British Empire Exhibition)を宣伝するように依頼されたのです。

まだ幼かった長女のロザリンドを、母クララと姉マッジに預けて出かけました。
南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランド、ハワイ、カナダなどを巡る旅は、とても楽しく、アガサ・クリスティは「私の人生の中でも、最もエキサイティングな 出来事のひとつだった」と、後日になって回想しています。

アガサ・クリスティーと夫アーチボルド・クリスティは、サーフィンを最初に学んだイギリス人となりました。(他にも何人かいたようですが人数はわかりません)

南アフリカでサーフボードに腹ばいになってサーフィンすることを学び、ワイキキでは立ってサーフすることを学んだのです。

南欧、パリ、カイロなどの生活経験や世界旅行・・・アガサ・クリスティー作品の多くが外国や豪華客船や列車を舞台にしているのも不思議ではありません。

アガサ・クリスティーの失踪事件!母の死と離婚

1926年4月、母のクララがなくなりました。この頃から夫アーチボルド・クリスティと、少しづつ歯車が狂い初めていました。また一方で、その年出版した「アクロイド殺し」の売れ行きが伸び、作家として手ごたえを感じていたのです。

夫アーチボルド・クリスティは、軍務を退いてビジネスの世界に転身したものの、成果が上がらず苛立っていました。作家として成功していく妻アガサ・クリスティーと、自分を比較して自尊心を傷つけられていたようです。

そんな時アーチボルド・クリスティは、ゴルフクラブで10才年下の女性に出会い、すっかり心を奪われてしまいました。アーチボルド・クリスティと10才若い愛人の関係が公然のものとなっても、アガサ・クリスティーは我慢していました。

ある日大喧嘩になった時、アーチボルド・クリスティは「週末を彼女と暮らすつもりだし、ちゃんと結婚するつもりでいる」と宣言。アガサ・クリスティーは夫にティーカップを投げつけ破局。

1926年12月3日の金曜日、アガサ・クリスティーは、行き先も告げず車で出かけたまま、失踪してしまいました。この失踪は11日間に渡ります。

アガサ・クリスティーが失踪した翌日の朝8時過ぎ、サリー州ギルフォードの郊外の小道の脇で、フレデリック・ドアという自動車検査係の男が、斜面を滑り落ちて草むらに突っ込んでいるアガサ・クリスティ―の車を発見。

車内には運転していた筈のアガサ・クリスティ―の姿は無く、毛皮のコート、スーツケース、アガサ・クリスティ―の運転免許証が残されていたのです。

サリー州警察本部に事故の一報が入り、ケンウォード本部長補の指揮による捜索が開始され、翌5日には大捜索が行われました。その夜アガサ・クリスティ―の失踪が新聞に大々的に報道されました。

気鋭の女流作家の失踪と、その夫の浮気というスキャンダルは、ネタに飢えていたマスコミにとって格好の標的となり、マスコミの矛先は夫のアーチーに向けられました。

沈黙していたアーチボルド・クリスティも、妻殺しの嫌疑をかけられ、新聞記者に対し、妻は自分の意思で姿を消したのではないかと述べましたが、自分の浮気と夫婦の不和という問題については曖昧に言及を避けていました。

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記者達はこぞって疑念を深め、やがてアーチボルド・クリスティが最も恐れていた事態が起きました。ついに、愛人ナンシー・ニールの名が新聞に掲載されたのです。

失踪から11日目のこと、アガサ・クスティーは、ヨークシャーのハロゲート・ハイドロパシック・ホテルにいました。ホテルから一報が入り、アーチボルド・クリスティが確認しました。

夫妻は2人だけで会話を交わし部屋に引き上げ、翌日には人目を避けるように自宅に戻り門はは固く閉ざされました。失踪の理由を説明すべきだという圧力がありました。夫アーチボルド・クリスティは、

「彼女は完全に記憶を失っており、自分が誰であるかもわからない状態です。私のこともわからない様子ですし、何故ハロゲートに来ているのかということすらわかっていないのです……」と告げます。

しかしマスコミによる執拗な追求は続いた。夫アーチボルド・クリスティは精神科医の「記憶喪失」という診断書を提示しても、心ない非難や悪し様な推測が乱れ飛びましたが、アガサ・クリスティ―は何一つ語らず今も尚、真相は謎。そして1928年に2人は離婚。

14才年下の考古学者と再婚!幸せな結婚生活は最後まで続いた!

アガサ・クリスティーは、以前からオリエント急行に乗りたいと思っていました。
アーチボルド・クリスティと離婚した1928年の秋、念願だったオリエント急行に乗っています。

アガサ・クリスティーは、ディナー・パーティーでの会話から、バグダッド経由でウルの発掘現場に脚を伸ばして、発掘の中心だったウーリー夫妻と知り合いました。

1929年、発掘現場に招待されたアガサ・クリスティーは、見習い考古学者のマックス・マローワンと出会います。彼は14才年下の25才の青年でした。

ウーリー夫人の依頼で、マックス・マローワンは、アガサ・クリスティを発掘現場に案内します。二人は一緒にいると何故か不思議にくつろげることに気が付き、意気投合しました。

マックス・マローワンのプロポーズを受け入れたアガサ・クリスティは、1930年9月11日にスカイ島で再婚しました。2人の幸福な結婚生活は、1976年にアガサ・クリスティーがなくなるまで続いたのです。素晴らしく相性が良かったのでしょうね。

結婚後二人は、生活スタイルを確立させました。
  • 春と晩秋は発掘作業をして過ごす。
  • 夏は娘ロザリンドと共に、アガサ・クリスティーの実家、トーキーのアッシュフィールドで過ごす。
  • クリスマスはアガサ・クリスティーの姉の家族とカントリーハウスのアブニー・ホールで過ごす。
  • それ以外の時期は、ロンドンやウォリングフォードの屋敷で過ごすという生活パターン。
また、1938年にアガサ・クリスティーは、一目惚れしたデヴォン州の邸宅「グリーンウェイ」を購入しています。「グリーンウェイ」は、トーキーのアッシュフィールドの代わりに、夏場の滞在先として過ごしましたが、ここは大変満足できる夏場の滞在先となったようです。

アガサ・クリスティーは、マックス・マローワンと結婚してから考古学に目覚め、いつも発掘作業に同行してマックス・マローワンと一緒に作業していました。だから、相当の知識を身につけていたと思われます。

アガサ・クリスティーは、自伝の中に「夫のマックスに、『少女時代に考古学に興味を持っていれば、もっとずっと知識が身についていたでしょうに。本当に残念だわ。』と言った時、『現在のイギリス女性で君以上に有史以前の陶器について博学な女性はいないということに気づいていないのかい?』」と、マックス・マローワンが応えたと記しています。

アガサ・クリスティーは、中東を舞台にした名作を書き上げていますが、名作「メソポタミアの殺人」などもその一つ。

彼女が生まれ育ったトーキーやその近辺が舞台になったのは「そして誰もいなくなった」。1934年の「オリエント急行の殺人」は、オリエント急行の南の終点であるトルコのイスタンブールにあるペラ・パレス・ホテルで書かれたものだとか。

ペラ・パレス・ホテルで、アガサ・クリスティーが使った411号室は、現在も彼女の滞在を記念して装飾されているそうです。そして、アガサ・クリスティーとマックス・マローワンが、1938年に夏の住居として購入したデヴォン州のグリーンウェイ邸は、現在ナショナル・トラストが管理しています。

ナショナル・トラストは歴史的建築物の保護を目的として英国において設立されたボランティア団体。ナショナル・トラストのアドレス⇒ https://is.gd/F19QPH

マックス・マローワンとの再婚したアガサ・クリスティーは、亡くなるまで添い遂げていますが、とても幸せだったようです。相性抜群の素敵な夫婦だったのですね。

まとめ

アガサ・メアリ・クラリッサ・クリスティは、イギリス生まれの推理作家。
発表された推理小説のほとんどが世界的なベストセラーとなり「ミステリーの女王」と呼ばれました。

本名:アガサ・マローワン(旧制:アガサ・メアリ・クラリッサ・クリスティ)
生年月日は1890年9月15日 。1976年1月12日に86才で亡くなりました。
高齢のため風邪をこじらせ静養先のイギリス、ウォリングフォードの自宅で死去しています。

1926年に発表した『アクロイド殺し』における大胆なトリックと意外な真犯人を巡って、フェアかアンフェアかの大論争がミステリ・ファンの間で起き、一躍有名となりました。この年には母の死後アガサ・クリスティーは謎の失踪事件を起こしています。

1928年にアーチボルドと離婚した後、1929年の中東旅行で出会った、14歳年下の考古学者のマックス・マローワンと1930年に結婚。1976年になくなるまで夫婦仲良く添い遂げました。

1943年に、オックスフォードシャーのチョルシーにあるセント・メアリ教会にて、「カーテン」および「スリーピング・マーダー」を執筆。死後出版の契約を結んでいます。

1956年 :大英勲章第3位 (CBE) 叙勲。
1971年 :大英勲章第2位 (DBE) 叙勲。

1973年 :「運命の裏木戸」発表。最後の作品。これがアガサ・クリスティーが執筆した、最後のミステリー作品となりました。

1976年 :高齢のため風邪をこじらせ静養先のイギリス、ウォリングフォードの自宅で死去。

86才で亡くなられていますので、かなり長生きされた方だと思います。でも、わたしとしては、もっともっと生きて、ポアロとマープルを書き続けて欲しかったですね。

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