「徹子の部屋」に3度も出演されている笹本恒子さんのことは、ご存じの方もたくさんいらっしゃると思います。

笹本恒子さんの「好奇心ガール いま97才」が出版されたのは、2011年10月。わたしはタイトルに惹かれて、すぐ購入して読んだのですが、心をゆさぶられました。この時初めて笹本恒子さんのお名前を知りました。
そして半年後に「お待ちになって、元帥閣下」が出版されています。

大正、昭和、平成と、笹本恒子さんが歩いてこられたのは、103年間にもわたる長い道のり。

笹本恒子さんは、9才の誕生日に起きた「関東大震災」をはじめ、「二・二六事件」「日中戦争」など、激動の中をいつも前向きに駆け抜けてこられ、今も尚現役で、2016年には写真界の世界的な賞と言われている、米国の「ルーシー賞」を受賞されるなど、活躍されています。

笹本恒子さんの書籍「お待ちになって、元帥閣下」から、形にとらわれることなく、独自の道を歩み続けてこられた「生き方」を、辿ってみたいと思います。

  • 1923年9月1日:関東大震災がおきました!
    この日、笹本恒子さんは9才の誕生日だったのです。ラジオも無く、情報を知るすべ(方法)がない時代でした。
  • 1936年2月26日:「二・二六事件」がおきました。
    総理官邸、重臣宅などが、近衛部隊の兵隊たちによって襲撃された事件です。
  • 1937年7月:日中戦争がはじまりました。
  • 1939年:笹本恒子さんが、写真を始めるきっかけとなった恩師との出会い。
    特派員だった恩師は、「アメリカには女性報道写真家が何人もいます。日本では初めてですが、女性の報道写真家になってみませんか」と勧めてくれました。
  • この出会いがなければ、報道写真家としての笹本恒子さんは、存在しなかったかもしれません。
  • 1940年、1年間休職して復職した笹本恒子さんですが、転属された恩師の後を引き継いだ上司の、厳しい言葉が・・・待っていました。

笹本さんの身辺には、「えっ」と驚いてしまう、想像もできないようなことが、つぎつぎ起こります。

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報道写真家になって2か月、尻尾が5mもある尾長鶏の全身を撮るのは、その当時(約70年前)のライカでは無理だった。試行錯誤を繰り返した笹本恒子さんが、どんな方法で、尻尾の先まで入る尾長鶏の写真を撮ることができたのか・・・

二重橋(皇居前)で写真を撮っていた笹本恒子さんは、警官に追いかけられるのですが、何故追いかけられたのか・・・

また、大阪出張から戻った笹本恒子さんは、上司から特大の雷を落とされたのですが、その理由は?

まさに「人生は小説よりも奇なり」。何が起きるのか、ちょっとワクワクしながら、笹本恒子さんが歩まれた道を辿ってみましょう。

日中戦争の真っただ中、報道写真家としてスタートした笹本恒子さん

首相の首ねっこを締めた?!
1939年、報道写真家して歩き始めてまだ2か月、先輩カメラマンについて、平沼騎一郎首相(現在なら安倍首相)の取材に出かけた時、笹本恒子さんはまだ25才でした。

先輩カメラマンが、平沼首相にカメラを向けたとき、首相のネクタイがまがっていたそうです。平沼首相の秘書の方に「ネクタイをなおして下さるよう」にお願いしたところ、ネクタイがなおさら、まがってしまったというのです。

それを見た笹本恒子さんは、とっさに首相に近づくと「閣下、失礼いたします」
一礼して、ネクタイをまっすぐに、なおしたのですが・・・

先輩カメラマンは、オフィス「写真協会」のドアを開けながら大声で、叫ぶように言いました。「笹本さんはね、エイッとばかり、平沼首相の首ねっこを、しめちゃったんですよ!」

きっと、オフィス中にいた方々の目は、笹本さんに集中したでしょうね。

 

先輩カメラマンは、 「平沼さん、おどろいたの何のって、目を白黒させてましたよ。だけど、助かったなあ!あのままでは、写真をとることはできなかったんだから」
面白がっているように見えて、実は笹本さんのおかげで写真が撮れたことを、感謝していたのでしょうね。だからみんなに教えたかったのかも知れません。

しかしオフィスにいた先輩達は悪のりして「秘書がびっくりしたでしょうね、今頃怒られているかも知れないよ。女性を始めて首相室に入れたこともね」とニヤリ。「昔なら、ハラキリだね」とか言いながら、腹によこ一文字を入れた先輩もいたそうですから、みんなが話にのっかり楽しんでいたのですね。

「大丈夫!笹本さん。その勇気があるなら、見込みがありますよ」報道カメラマンになるように勧めてくれた、恩人もそう言って大笑い。オフィスいっぱいに笑いが広がりました。日中戦争の最中ですから、つかの間の憩いとも言えるひと時だったのでしょうか。

今なら、カメラマンの助手か誰かが、「失礼します」とネクタイをしめなおすなんて、ありそうな気がしますが、笹本さん自身は恥ずかしくて、早く忘れてしまいたいと、思っていたそうです。今の20代だったら「そうよ、凄いでしょう!」なんて言いながら親指立てて、「グー」でしょうね。

笹本恒子さんの復帰直前に恩師は転属!後を引継いだ上司の厳しい!言葉とは?

笹本恒子さんは、1年間休職されました。お母様の看病も含めて、家族の面倒を見なければならない状況に追い込まれていました。報道写真家としてスタートしたばかりでしたから、辛かったでしょうね。

それから1年後、笹本恒子さんが復帰される直前のことでした。カメラマンになることを勧めてくれた恩人が、「内閣情報局」に情報官として転属されたのです。

1940年、笹本恒子さんが職場に戻ったとき、恩人はすでに転属された後で、会うことは叶いませんでした。恩人の後を引継いだ方は、笹本さんにカメラマンをやめて、他の部署に行くように説得したそうです。

「カメラマンをやりたいというのであれば、ここは養成所でも学校でもないのだから、女であること、新米であることは一切考慮せず、即戦力として働いてもらう、それでもやりますか?」という新しい上司の言葉に「・・・やりたい、やらせていただきたいと思います」と答えた笹本恒子さん。

厳しい上司の言葉でしたが、母の看病を続けた10か月間、仕事がしたい思いが募っていた笹本恒子さんは、「今やめたらきっと後悔する」という思いがあったそうです。

先輩カメラマンについて歩いた、わずか2回の経験しかありませんでしたが、心細さよりも、続けたい気持ちが強かった笹本さん。他の部署に行くように説得されてもなお、写真を撮りたいという強い気持ちが、背中を押したのでしょう。

笹本恒子さんは、行動派と言うか、決断力がある方だと思います。ひらめきと同時に体が動くような方ですね。そのことについて笹本恒子さんは、こんな話をされています。

チャンスを逃したときの「大胆行動」も、「怖いもの知らず」と言うより、実は厳しい上司の「雷」が怖かったことに加え、「プロ」として仕事を遂行したかったからだった・・・と。

「養成所でも学校でもないのだから、女であること、新米であることは一切考慮せず、即戦力として働いてもらう」上司の厳しい言葉が、笹本恒子さんのプロ魂を引き出したのかもしれません。そのプロ魂が、今も尚、現役で活躍されている笹本恒子さんの、精神力の源でしょうか。

笹本恒子さん、全身砂まみれで撮ったた東天紅鶏と尾長鶏

「平沼首相の取材の時のように、勇気をだして!」
先輩カメラマンたちの、はげましの言葉に背中をおされ、歩き出した笹本さんですが、どんな仕事、どんな取材でも、命令に従わなければならない立場でした。

報道写真家として、1人での初仕事は「5枚の組み写真」を撮ることでした。
復職して2か月後のことです。報道カメラマンとしての経験はわずか2回、本当に心細かったでしょうね。しかし「やらせて下さい」と言ったからには、どんな仕事でもこなさなければなりません。

組み写真とは、テーマを決めて、異なるアングルや視点から複数枚の写真を撮り、一枚の写真では表現できないことを表現するもの。見て欲しいところを表現する作品に仕上げる

先輩たちから、いろいろな助言をもらい、向かった先は「上野動物園」です。「尾長鶏と東天紅のコンクール」が催されていて、家族連れで大にぎわいでした。

その当時、笹本さんが使用されていた「ライカ」は、天候に合わせて、レンズのしぼりを決めて、シャッタースピードをセットしなければならず、簡単ではなかったみたいなのです。
今のライカなら、何も考えることなく簡単に撮れると思いますが、その当時(78年前〉の「ライカ」では、かなり難しかったと思われます。

「尾長鶏はしっぽまで画面に入るように」と、先輩カメラマンが教えてくれたのですが、しっぽの先までは5メートルもありました。

東天紅鶏、尾長鶏、高知県産で、どちらも日本の特別天然記念物に指定されています。下記のアドレスをクリックしてくださいね。東天紅鶏の写真が見られます。
 https://is.gd/EMWLRM

  • 東天紅鶏(とうてんこう)は鶏の品種のひとつ。
    尾羽が長く、おながどりに似た姿をしています。高く澄んだ声で長く鳴き、日本3大長鳴き鶏としても有名。
  • 尾長鶏(おながどり)は、長尾鳥(ながおどり)とも呼ばれています。おすの尾羽が、極端に長くなるのが特徴で、おながどりと呼ばれているそうです。
  • 下記アドレスをクリックして下されば、尾長鶏の大きな写真が見られます。長尾鶏センターのアドレス → :https://is.gd/veBQSb

1940年には望遠レンズもなかったでしょうし・・・しっぽの先まで5メートルもある尾長鶏の、全身がおさまる写真をライカで撮るのは、大変なことだったのでしょうね。

何としても全身写真を撮りたい笹本恒子さんは、いろいろ考えながら、離れてみたり、しゃがんだり、考えつくことを、次々試しましたが、全身は画面に入りません。

「しっぽが切れた写真では怒られる」という思いが、笹本さんの頭を占めていました。何かひらめきがあったのでしょうか、笹本さんは、土の上に腹ばいになったのです。そしてやっとの思いで写真をとり終えたのですが、全身は砂まみれになっていました。

わたしの想像ですが、おそらく腹ばいになった姿勢のままで、コロコロ転がりながら、オナガドリの尻尾まで奇麗に入るアングルを、探し続けられたのではないでしょうか。

後日、ドイツの新聞紙上に、5枚セットの「尾長鶏」の写真が掲載されたのです。笹本恒子さんが、全身砂まみれになりながら頑張った、「ごほうび」ですね。

いつもわたしたちが何気なく見ている、臨場感あふれる報道写真は、カメラマンの苦労が実った証なのだと、今さらですが、気がつきました。

二重橋前で警官に追いかけられた?笹本恒子さん

皇居前広場に、アメリカ各地から選抜されて、「日米学生会議」に参加する大学生約60人が、二重橋前にやってきたのは、1941年のことです。

その時、笹本さんと後輩は、他社のカメラマンたちと同じように、アメリカの大学生たちがいる二重橋から、少し離れたところに集結していました。笹本さんが、1枚、2枚と、シャッターを切ったところでした。1人の警官がこちらに向かって、走ってくるのが見えました。

「笹本さん大変です。おまわりさんが、怒ってやって来ます。早く、早く」後輩にせかされて、わけもわからないまま、かけだした笹本恒子さん。カメラや荷物もあるので、逃げるのは無理でした。

「ここをいったいどこだと思っているんだッ。天皇陛下の前で、そんな高いものに乗るやつがあるかッ」 警官にどなられ、初めて、追いかけられた理由がわかったのだそうです。(脚立にのっていたことで、怒られている)のだと。

「新聞社の連中だって、ここではそんなものに乗らん。何だ、女のくせに!」まさに、男尊女卑の世界ですよね、笹本さんの青春時代は。 もっとも今だって、「女のくせに」とおっしゃる男性、けっこういらっしゃいますけれど。

皇居の前で、脚立や高い物に乗ることが禁止されたという情報は見つかりませんでした。
脚立や高い物に乗ることが禁止されていたのではなく、1940年9月、航空標識になるような高層建築物の撮影や高所撮影が禁止されていました。

脚立に乗って高所撮影をしたので怒鳴られたというのが、本当の理由だったのではないでしょうか。

 日米学生会議とは?

日米学生会議 →アドレスをクリックすると、ウィキペディアに移動します →  https://is.gd/NqaNOO

1934年より続く国際学生交流団体である。日米両国から学生が集まり、夏の1か月間の共同生活を通して様々な世界的問題に関する議論を行う。代表団のメンバーおよび会議のOB・OG(「アラムナイ(alumni)」)は、"JASCer" と呼ばれる。

OB・OG(「アラムナイ(alumni))とは同窓生のことです。

今の日米学生会議は上記に記載されている通り、夏の1か月間共同生活を送り、多様な問題に関しての議論をするようになりましたが、1972年までは9日間だったようです。

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日米学生会議に参加するため、二重橋前に集まっていたアメリカの大学生たちは、笹本恒子さんが警官に怒鳴られた原因が、脚立に乗ったからだと知って、なぜ天皇家の前で、高いものに乗ってはいけないのか不思議がりました。

調べてみると脚立や高い物に乗ることが禁止されていたのではなく、1940年秋、空襲警報発令下で灯火の全てを消す訓練が行われたり、航空標識になるような高層建築物の撮影や高所撮影が禁止されていました高所撮影をしたので怒鳴られたと考えられますが、確証があるわけではありません。

1934年に開始された日米学生会議は、この年(1941年)で7回目をむかえていました。毎年日米交互に行われ、「政治」「経済」「文化」について討論するのが目的です。 この年の「日米学生会議」は9日間行われ、最後の討論会が終ると、校庭でサヨナラパーティが、開かれる予定になっていました。

現在もなお続いている伝統ある学生会議ですが、この会議に参加された方の中に、あなたもご存じだと思われる、下記の方々の名前がありました。

元総理大臣の宮沢喜一さん(第6回、第7回)
ヘンリー・キッシンジャー:米国国務長官(第12回)
脳科学者の茂木健一郎さん(第38回)

充実していた2か月だけの大坂支局!笹本恒子さんが泣く泣く書いた退職届!

「大阪駐在員」という任務を与えてくれたのは、他でもない、厳しい上司でした。
連日連夜「仕事をやめろ!」という兄との激しい闘いを上司に打ち明けたところ、窮状を考慮して、「式典行事の取材のため」という名目で任命されたのです。

この年(1940年)の秋に「皇紀2千六百年式典行事」が全国各地で催されるので、その「関西方面の取材」という名目で、関西出張を命じてくれた上司に、何と言えばいいのか・・・感謝を伝える言葉が見つからないほど、笹本恒子さんは嬉しかったそうです。

四畳半一間の「大坂支局開設」でしたが、報道写真家として、笹本恒子さんの担った役目は重要でした。

ニュース、行事、催物、著名人の行動、文化、教育、産業など全てをチェックするのも、一人でしなければなりません。撮影済みのフィルムを、未現像のままキャプションを添えて、東京の写真協会に送るのも、技術不足で大変な思いをされたそうです。

持ち前の行動力で、大阪随一の心臓カメラマンと言われている他社カメラマンに「負けた!」と言わせたこともありましたが、ある現場で、カメラが発光せずピンチにおちいった時、「早く撮れ!時間ないぞ」と自分のカメラを差し出してくれたのは、そのカメラマンだったのです。

大阪支局を開設した時から、いろいろ相談に乗ってくれている方がいましたが、写真協会の部長から紹介された方でした。

その方に、「舞妓さんの写真を撮りたい」と相談したら、大阪の芸者がいいということになりました。そして芸者と半玉が呼ばれてやってきましたが、「モデル」を使った撮影経験がない笹本さんは、最初気後れしていたそうです。でも、1枚シャッターを切ると、あとは夢中で撮りまくったといいます。

  • 芸者見習いは「半玉」と呼ばれます。
  • 芸妓見習いは「舞妓」と呼ばれています。
    関東では「半玉」と呼びますが、京都では「舞妓」と呼びます。
  • 関東と京都では呼び方が違いますが、稽古内容は同じで、舞踊や三味線などの稽古をしています。

多忙でしたが、充実した毎日を送っている笹本恒子さんに、写真協会から「すぐ帰れ」の電報が届いたのは、大阪に来てから2か月後のことでした。「大坂支局」を引き払って帰京すると、家族から「呼び戻してくれ」と依頼があったのだと聞かされました。

笹本恒子さんは、大阪出張の清算費に、高額の請求書(芸者さんの写真を撮った費用)を提出してしまい、上司から大目玉!です。特大の「雷」が落ちました!

  • この時、笹本恒子さんの「月給が65円」。
  • 2時間の「芸者代は58円」だったそうです。
  • 現在の月給を30万円だと仮定して考えたら、26万円くらいでしょうか。
  • 特大の「雷」に直撃された笹本さんは「自分で払えばよかった」と後悔されたそうです。

笹本恒子さんは、毎日のように「仕事を辞めろ」と言い続ける兄と闘いながら、仕事を続けていらっしゃいました。

その年の暮れ、初めての野外夜間写真を撮ったことが原因で、兄の暴言、暴力が一段と激しくなり、体調を崩し、精神的にも疲れ切ってしまった笹本恒子さん。涙にくれながら退職届を出されたといいます。

「お待ちになって、元帥閣下」のタイトルで出版された書籍の中で、笹本恒子さんは、写真協会を退社された時のことを振り返って、このように話されています。

  • 「わずか1年ですが、とても濃密でした。カメラの扱い方も知らなかったのに、取材の都度、先輩方にあれこれ教わり、組み写真構成の要領も、キャプションを書くことも覚えました。
  • ライティングも工夫できるようになり、現像、プリント、引き伸ばしなどの暗室作業も覚えました。1年間で、幼稚園から大学を卒業できたようなものです」・・・と。

今を生きる笹本恒子さん!歩みは止まりません

笹本恒子さんは今迄に、何度か写真展を開催されていますが、2015年の10月16日から11月11日の間、東京都品川の美術館企画展で「日本初の女性報道写真家 笹本恒子100歳展」を開催されて以後の(写真展)情報は入手できていません。

2016年には米国のルーシー賞「ライフタイムアチブメント部門賞」を受賞された笹本恒子さん。
  • 「厳しい時代を、自立心を持って生き抜いた女性を写し出した」と評価されたもので、生涯を通じ写真界に貢献した個人が対象とされています。
  • 時を同じくして、日本写真家協会による「笹本恒子写真賞」の創設が決まりました。笹本賞は、社会に影響を与えた若手写真家の活動を助成するというものです。

笹本恒子さんは、「徹子の部屋」に3回出演されている中で、2016年12月19日に出演された当時の内容が書き起こされており、下記アドレスをクリックすると詳細がわかります。
徹子の部屋 102歳の写真家・笹本恒子 2016.12.19  https://is.gd/t3colp

「徹子の部屋」

  • 第1回目の出演は、2012年9月24日
  • 2回目の出演は、2015年4月22日
  • 3回目の出演が2016年12月19日です。この日の会話が書きおこされています。

2016年、ドキュメンタリー映画「笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ」が公開されました。

  • この映画は、フリーランスとして独自の道を歩み、日本特有の狭い価値観からは距離を置いてきた姿勢。
  • 人々の日常に寄り添う血の通ったものの見方。
  • 100年の歳月をしなやかに生き抜き、笑いながら終えようとする二人(笹本恒子・むのたけじ)の、学ぶべき自由な生き方を描いたドキュメンタリー映画です。

むのたけしさんは、1915年1月2日秋田生まれの新聞記者です。笹本恒子さんと同じく戦前・戦後を生き抜き、移り行く時代を記事に残した伝説のジャーナリスト。

怪我をされてリハビリ中の笹本恒子さんは車椅子で、ドキュメンタリー映画「笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ」上映式典にも出席されたそうです。今も、リハビリが続いているのかどうか、いろいろ調べたのですが、新しい情報は確認できませんでした。

まとめ

波乱万丈の人生を歩いてこられた笹本恒子さんですが、物事にとらわれず、自由に生きてこられ、今も尚、報道写真家として活躍の場を広げておられます。

「徹子の部屋」にも、2012年、2015年、2016年と3回出演されていますが、とてもお元気でお若い感じがしました。

ドキュメンタリー映画「笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ」は、今も全国で放映されているそうです。上演劇場の詳細は、下記アドレスをクリックして下さいね。http://www.warau101.com/theater/
  • 1923年9月1日:関東大震災の時、笹本恒子さんは9才の誕生日でした。 ラジオも無く、情報を知る方法がない時代でした。
  • 1936年2月26日:「二・二六事件」がおきました。 総理官邸、重臣宅などが、近衛部隊の兵隊たちによって襲撃された事件です。
  • 1939年:25才だった笹本恒子さんが、写真を始めるきっかけとなった恩師との出会い。特派員だった恩師は、「アメリカには女性報道写真家が何人もいます。日本では初めてですが、女性の報道写真家になってみませんか」と笹本恒子さんにすすめました。
  • 1940年、日本初の女性報道写真家として歩き始めた時、笹本恒子さんはまだ25才でした。
  • 1941年4月:笹本恒子さんは、断腸の思いで、涙にぬれながら退職届を出されています。野外の夜間撮影の仕事をしたことが発端となり、兄の猛烈な暴言、暴力と闘うことに疲れきってしまい、体調を崩され退職されました。

内容が深すぎて、笹本恒子さんの103年もの長い道のり、1度には辿り切れませんでした。

断腸の思いで退職届を出された笹本恒子さんを待ち受ける、波乱万丈の人生、笹本さんが歩まれた戦中、戦後の道のりを、改めて辿りたいと思っています。そこには、あなたやわたしなどには、想像も及ばない世界が広がっていることでしょう。

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