あなたは ご存知でしょうか。杉原千畝(すぎはら ちうね)のことを。
ナチス・ドイツの迫害から逃げてきたユダヤ人の「命綱」とも言えるビザ発給!
列車を待つホームでも尚、可能な限り(日本通過)ビザを発給し続けた杉原千畝のことを・・・

杉原千畝は日本の外交官(元国家公務員)。
第二次世界大戦中に日本領事館の領事代理として、リトアニアのカウナスという都市に赴任していましたが、ポーランドなど、欧州各地から逃れてきた難民の窮状を目の当たりにした杉原千畝は、ギリギリまでビザ(日本通過許可証)を発給しつづけました。

日本通過ビザの発給が認められるユダヤ人の資格として、「避難先国の入国許可を得ていること」や「避難先の国までの旅費を持っていること」などが定められていました。

日本では、ユダヤ人に限らず、すべての外国人について、避難先国の入国許可を得ていない者には通過ビザを発給しない、という方針を決めていたのです。

しかし、実は、ビザ発給を求めてリトアニアのカウナス領事館にやって来るユダヤ人の多くは、規則に従えばビザの発給が認められない人々ばかり。

日本はこの規則に従っていたので、資格を持たないユダヤ人へのビザ発給の許可は、最後まで出していません。しかし杉原千畝は、独自の判断で発給を続けたのです。

ヨーロッパから日本経由でアメリカに渡るユダヤ人難民が、日本にもかなり逃れて来ていましたが、その多くは、日本を通過してさらに他の国に避難していきました。

それでも、日本通過ビザで日本に渡ったユダヤ人の中には、避難先の入国許可を得ていないために、結果として日本で足止めとなった人々も多かったでしょう。ですが、命の危険が迫るヨーロッパから脱出させることができたのは、まさに彼らの命を救ったことにほかなりません。

外務省に保管されている「杉原リスト」と呼ばれている中に記された2139名のユダヤ人名。杉原千畝がユダヤ人に発給したビザの枚数です。

ビザは一家に1枚でしたから、杉原千畝が救った命は、6,000人から8,000人とも言われていますが、正確にはわかりません。

杉原千畝は「東洋のオスカー・シンドラー」と呼ばれるようになりましたが、日本では、杉原千畝(すぎはら ちうね)のことを知る人も少なく、何十年間も、その名前が表舞台に出てくることはありませんでした。
♦オスカー・シンドラーについては後程お話しますね。

タテ社会だった日本では、命令に背いたことが不満だったのではないだろうか・・・と推測されているようです。リトアニア大使館閉鎖の命令がきたにも拘わらず、杉原千畝には帰国命令が出されなかった。

その当時は、杉原千畝は何の咎めもなく、チェコの総領事などを務めてから帰国しています。ところがなぜか、ソ連軍に拘束されてしまうのです、1年間も・・・

オスカー・シンドラーのことや、杉原千畝がユダヤ人難民に「日本通過ビザ」を発給し続けた背景を、もう少し調べてみたいと思います。

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名誉回復に尽力した鈴木宗男!日本人は映画化で杉原千畝の名を知った!

海外では、早くから「東洋のオスカー・シンドラー」と呼ばれ、その名を知られていた杉原千畝ですが、日本では、知る人も少なかったし、何十年間も、取り上げられることはありませんでした。

杉原千畝が評価されなかった理由として考えられるのは、日本はタテ社会だったので、命令に背いたことが不満だったから・・・と言われているようです。

ところが最近になって、杉原千畝が行った救出劇が、同じような救出関連の中で、特に有名な一つとして名前が挙げられているそうです。

チェリン・グラック監督、唐沢寿明さん主演で映画化され、「杉原千畝 スギハラチウネ」のタイトルで、2015年12月5日に公開されましたが、ご覧になっていたかしら・・・この映画が評判になり、日本でも杉原千畝の名前が知られるようになってきたそうですよ。

杉原千畝(すぎはら ちうね)。
生年月日: 1900年1月1日。
出身地 : 岐阜県 美濃市。
死亡  : 1986年7月31日, 神奈川県 鎌倉市。

杉原千畝が「東洋のオスカー・シンドラー」と呼ばれることになったドラマの舞台がリトアニア。杉原千畝がカウナス日本領事館領事代理に任命されたのは、1939年(昭和14年)のことでした。オスカー・シンドラーについては、後で説明しますね。

杉原千畝がカウナス日本領事館領事代理となった頃には、ユダヤ人に対するナチス・ドイツの迫害が、一段と激しくなっていたため、ドイツ占領下のポーランドをはじめ、ナチス・ドイツの影響の強い地域から逃れてきたユダヤ人に、どのように対処するか・・・と国際的な問題がおきていたと言います。

1939年、この頃の日本は日独伊3国同盟を結び、強固な同盟を優先していたらしいのです。日本の外務省は訓令を出します。ユダヤ人に日本の入国や通過させるのは良くないとするものだったとか。

ユダヤ人を救った杉原千畝の「心情」と「状況」がわかる記事のアドレス:https://diamond.jp/articles/-/83427

杉原千畝が後々語っています。「ユダヤ民族から、永遠の恨みをかってまで書類の不備とか公安上の支障云々を口実に、ビザ発給を拒否してもいいのか、また国益に叶うことなのか」と悩み続け、人道主義、博愛主精神第一という結論に達したと。

そしてまた「私以外の誰かであったなら、昇進が止められたり首になるのを恐れて、全員が「ビザ発給を拒否」という、無難な道を選択しただろう」とも語っていたそうです。

杉原千畝は、政府の方針や外務省の訓令にそむいて、ビザを発給し続けましたが、当時、杉原千畝は何の咎めもなく、チェコの総領事などを務めてから帰国しています。しかしなぜか、ソ連軍に拘束されてしまうのです、1年間も・・・

1年間ソ連軍に拘束された後帰国した杉原千畝は、「ユダヤ人から金をもらってビザを発行した」などと、謂われもない誹謗中傷を受けました。しかも、帰国後2か月で退職させられています。

1985年1月杉原千畝は、イスラエル政府からユダヤ人を救った人だけに贈られる「諸国民の中の正義の人」の称号を授与され、「ヤド・バシェム賞」を受賞しましたが、もちろん日本人では一人だけ。

「ヤド・バシェム賞」の受賞式で、事実を知った鈴木宗男氏の働きかけなどもあり、1991年には名誉回復しています。当時の外務政務次官だった鈴木宗男氏が、外務官僚の反対を押し切って、、杉原幸子さんと杉原弘樹氏に公式に謝罪し和解を求めましたが、杉原千畝はすでに亡くなっていました。

名誉回復について尽力した鈴木宗男氏の談話が記載された下記アドレス
https://www.nippon.com/ja/people/e00080/

ただ、杉原千畝に外務省が正式に謝罪したのは2000年でした。

河野洋平外務大臣が、故杉原千畝氏とその遺族に対して、 「外務省とご家族との間にご無礼があった・・・極限的な局面において、人道的かつ勇気ある判断をした素晴らしい先輩だ」と語り、戦後の外務省の非礼を認め正式に謝罪しています。

オスカー・シンドラー

ポーランドのクラクフでユダヤ人救命に尽力したオスカー・シンドラーは、1908年チェコで生まれたドイツ人実業家。

第二次世界大戦末期に、多くのユダヤ人の命を救ったことで知られる有名な人物ですが、オスカー・シンドラーは、自身が経営していた軍需工場でユダヤ人を雇い入れ、その身柄を保護しました。
♦軍需工場とは、戦争のために必要な物資を製造する工場のことです。

オスカー・シンドラーのおかげで、1200人以上のユダヤ人が命を救われたのです。ユダヤ人労働者を保護するために作成した申請リストは「シンドラーのリスト」と呼ばれているそうです。

オスカー・シンドラーの活躍ぶりは、「シンドラーのリスト」と言うタイトルで、スピルバーグ監督によって映画化され、大きな反響を呼びました。そしてオスカー・シンドラーの存在が広く知られるようになったのです。因みにスピルバーグ監督自身もユダヤ系だとのこと。

オスカー・シンドラーが、多くのユダヤ人を労働者としてかくまった工場は、近年リニューアルされています。14施設からなる「クラクフ歴史博物館」の1つとして、ナチス占領下のクラクフ市民の暮らしをリアルに伝えているそうです。

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オスカー・シンドラーの先祖は16世紀に、ウィーンからこの地に移住してきました。ドイツ系でカトリックだったそうですが、オスカー・シンドラーは信仰心が薄く、ユダヤ人の子供と一緒に遊んでいたそうですが、親は何も言わなかったようです。

父親は農業機械の工場を経営していたらしいので、経済的には比較的豊かだったと思われます。オスカー・シンドラーは、学校の成績は良くなかったのですが、悪賢いところはありました。

オスカー・シンドラーは学校を卒業してからは会社勤めをしていましたが、徴兵で一時期チェコスロバキア陸軍に入っていたことがあります。

妻となるエミーリエ・ペルツルと出会ったのは1927年で、半年ほど経ってから結婚しています。2人の間に子供はいませんが、シンドラーは父の秘書だった女性と愛人関係になり、2人の子供が生まれています。

戦後、オスカー・シンドラーは妻エミーリエ・ペルツルのと共にアルゼンチンに赴きますが、何故かオスカー・シンドラーだけがドイツに帰国しています。それ以後二人は1度も出会っていないそうですが、離婚はしていません。

まとめ

当時の日本では、ユダヤ人に限らず、すべての外国人について、避難先国の入国許可を得ていない者には通過ビザを発給しない、という方針を決めていたのです。

しかし、実は、ビザ発給を求めてリトアニアのカウナス領事館にやって来るユダヤ人の多くは、規則に従えばビザの発給が認められない人々ばかり。

日本はこの規則に従っていたので、資格を持たないユダヤ人へのビザ発給の許可は、最後まで出していません。しかし杉原千畝は、独自の判断で発給を続けたのです。

リトアニアを占拠したソ連からの退去命令も厳しくなり、日本からは、帰国命令ではなく「領事館を閉鎖して直ちベルリンへ行け」と電報がとどきました。

杉原千畝は、ユダヤ人に「日本通過」ビザを発給するために、食事を取らず、寝る時間を惜しみ、ギリギリまで書き続けたのです。万年筆が折れるほどだったとか。

リトアニア領事館を閉鎖してベルリンに向かう列車を待つ間にも、ビザを求めてホームに群がるユダヤ人のために、杉原千畝は「日本通過」ビザを発給し続け、全員に行き渡るまで書き続けたのです。

外務省に保管されている「杉原リスト」と呼ばれている中に記された2139名のユダヤ人名。杉原千畝がユダヤ人に発給したビザの枚数です。

ビザは一家に1枚でしたから、杉原千畝が救った命は、6,000人から8,000人とも言われていますが、正確にはわかりません。

その当時は何の咎めもなく、チェコの総領事などを務めてから帰国した日本で、杉原千畝は「抗命」の罪に問われ、外務省の次官から「命令が聞けない人に外務省にいてもらっては困ります。やめて下さい」と言われていました。

1985年イスラエルの外相シャミルが来日。
歓迎レセプションの席でイスラエル大使は、85才になっていた杉原千畝を「杉原さんはユダヤ民族の恩人です」と、当時の首相中曽康弘と外相の安倍晋太郎に紹介しました。イスラエル大使は杉原千畝を大使館に招待していたのです。

しかし、中曽康弘首相も安倍晋太郎も、杉原千畝について何一つ知らなかったのです。
「命のビザ」を発給されたユダヤ人は、「どんなに月日が経とうとも、私たちは必ず再びあなたの前に立ちます」と誓い、日本の外務省は消息を教えなかったのに、あきらめずに探し出していました。

その6年後の1991年には杉原千畝は名誉回復しています。事実を知った外務次官の鈴木宗男氏が、外務官僚の反対を押し切って、杉原幸子さんと杉原弘樹氏に公式に謝罪し和解を求めましたが、杉原千畝はすでに亡くなっていました。

海外では、早くから「東洋のオスカー・シンドラー」と呼ばれ、その名が知られていた杉原千畝さん。なぜもっと早く・・・せめて杉原千畝さんが生存している時に、謝罪して欲しかったと思います。

杉原千畝はビザを発給することについて妻の幸子さんと話し合い「いいだろう?」と問い、幸子さんは「後でわたしたちはどうなるかわかりませんが、そうして下さい」と答えていました。処分を覚悟の上で「日本通過」ビザを発給していたのです。

今昔を問わず「地位や名誉の保身」を考える方が多いですよね。杉原千畝さんのような「清涼剤」・・・となるような方は稀有なのでしょうか。そう思うと、一抹の侘しさを覚えずにはいられません。

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