あなたも探していらっしゃるのでしょうか?
ちあきなおみさんのその後について。
表舞台から姿を消してから、早くも27年・・・

わたしもちあきなおみさんの大ファン!
もう一度、歌を聞きたいと思い続けているのですが、叶いそうにありません。多くの方が、ちあきなおみさんの今を知りたいと、探しておいでになる様なのです。でも、新しい情報はなく殆ど同じところで行き止まり。

この27年の間に、何度かテレビで「ちあきなおみ特集」が放送され、その歌声を聞きながらいつも思っていました。人の心の奥底に染みわたるような歌・・・心の琴線を揺さぶる様な魂のこもった歌だと。

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天才美空ひばりさんと並び称されたちあきなおみさん。
何時だったか、義兄の宍戸錠さんが「美空ひばりよりも、ちあきの方が上手いと思ったほどだった!」と話しておられました。

人それぞれで、歌の好みが違いますけれど、ちあきなおみさんも美空ひばりさんも、甲乙つけがたいと思っています。二人とも、どんな歌でも自分の歌にされてしまいます。二人それぞれの個性あふれる歌になって心に届くのです。

今一度生歌を聞かせて欲しい・・・と思っている方が沢山いらっしゃるでしょう。芸能界にも、ちあきなおみさんファンは多いと聞きました。

わたしも必死になって、ちあきなおみさんの新しい情報を探し続けているのですが、お住いの近隣の方なども、詳しいことはご存知ないようですよね。義兄の宍戸錠さんとも連絡を取られていないとのことですから。

今迄の情報からさほど進歩していませんが、少し丁寧に、ちあきなおみさんの歩かれた道を辿りながら、表舞台から姿を消されるまでと、その後知り得た小さな情報なども含めて、振り返ってみましょう。

ちあきなおみさん夫婦が喫茶店を営んでいた南麻布

郷鍈治さんとちあきなおみさんが「喫茶店」を営んでいらっしゃったことは、あなたもきっとご存知でしょうね。多くのファンに周知されていたようですから。

「喫茶店」は、東京南麻布の一角にある五階建てビルの二階にありました。今は空き店舗となっているようです。

郷鍈治さんが名付けたと言う「喫茶店」の名前は「COREDO:コレド」。レコードのスペルを並び替えたものだと言われています。(「RECORD」:レコード)

当時は業界人のたまり場になっていたそうです。ちあきなおみさんと郷鍈治さんが結婚したのは1978年。その後郷鍈治さんは俳優を辞めて、ちあきなおみさんのマネジメント事務所の社長を務めながら、「喫茶店」のマスターも兼任していました。

いつも笑顔でコーヒーを入れていた郷鍈治さん。俳優時代はどちらかと言えば、ちょっと強面だった感じだったそうですけれど。時にはちあきなおみさんが訪れて、手伝っていたこともあるとか。ファンにとっては隠れ家的な憩いの場となっていたのでしょう。

それから14年、肺がんで亡くなられてしまった郷鍈治さん(享年55)。1992年9月1日のことでした。その後は、桃井かおりさんの実兄(脚本家)の桃井章氏が、「COREDO:コレド」という屋号ごと借り受ける形で、「バー」として営業されていたようです。

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ちあきなおみさんも何度か訪れていたといいますが、「バー」にピアノが置かれた時に漏らした言葉が、「ここなら歌ってみてもいいかな・・・」でした。しかし実現することもないまま、「バー」は赤坂に移転したそうです。

もし、その「バー」でちあきなおみさんが歌うようになっていたら、歌声が消えてしまうことはなかったかも知れません。

桃井かおりさんの実兄(脚本家)の桃井章氏経営する「バー」が、赤坂に移転してからでさえ、もう17年の月日が流れています。光陰矢の如しですね。

ちあきなおみさんの歩いてきた道

現在は活動休止されています。
歌手として活動されていた期間は1969年~1992年(23年間)

ちあきなおみさん
本名:瀬川 三恵子
生年月日:1947年9月17日(71才)
出身地:東京都板橋区

ちあきなおみさんは、4才からタップダンスを習っていましたが、お母様の影響を受けたと言われています。そして5才の時には早くも日劇で初舞台のステージに立っていました。

それから後は、米軍キャンプを廻っていたのですが、歌と踊りの練習は欠かさず続けていました。そして13才になった時、本格的に歌手活動を始めたのです。

ちあきなおみさんの歌手活動は幅広く、ロカビリーを主体に活動していたなんて、ちょっと信じられない気がしますが、体全体で表現する歌い方はその名残りかも知れませんね。



ロカビリーに加えて、ジャズもバンバン歌っていました。ジャズ喫茶が衰退を始めたと見るやすかさず、演歌や歌謡曲の勉強も始めるなど、全てを網羅する勢いでレパートリーを広げ続けたちあきなおみさん。

コロンビアレコードのオーディションを受けたのが縁で、鈴木淳氏(作曲家)に師事。21才になって念願のレコードデビューを果たしました。曲名は「雨に濡れた慕情」1969年です。失われた恋の思い出を胸に、雨の街をさ迷い歩く、女心の切なさを歌ったものでした。

その翌年の1970年には「四つのお願い」がヒットして、その年の紅白歌合戦(NHK)に初出場。
更に1972年に大ヒット曲「喝采」にめぐり合い「日本レコード大賞」を受賞しました。その後も次々とヒット曲を飛ばし、歌手として不動の地位を固めていきます。

ちあきなおみさんは、1978年に俳優の郷鍈治さんと結婚したのを機に「充電期間」に入りましたよね。理由は「ヒット曲を追いかけるのではなく、自分が歌いたいと思う歌を歌いたい!歌にじっくり取り組みたい!」ということでした。

2年後の1980年には、CBSソニーから発売された、映画「像物語」の主題歌を歌っていました。また女優としてもテレビドラマに出るなど、芸能活動を再開しています。

ビクターに移籍したのがその翌年の1981年。シャンソン、ジャズ、ファド、歌謡曲など、ジャンルにとらわれないで、ちあきなおみさん独自の解釈で歌われたアルバムを発売しましたが、このアルバムは年に1枚のペースで作成し発売。

その合間には、時折ですがライヴ・ステージもこなしながら、ちあきなおみさん独自の音楽活動をしています。その一方で、女優としてもドラマ、映画で活躍し評判になるほどの、バイ・プレーヤーぶりを魅せています。

テイチクレコードに移籍したのが1988年でしたが、テレビの歌謡番組に、実に10年ぶりに出演するなど積極的に活動していました。この年、わたしが大好きな「紅とんぼ」が発売されたのです。この歌がヒットして再び紅白歌合戦に出場しています。

上記画像元のアドレス ⇒ https://is.gd/YKxtgj

その翌年1989年11月に、ミュージカル『LADY DAY』の主演で初出場してジャズ・シンガー役を熱演!一人芝居の形で魅せるストーリーでしたが、その歌と演技は絶賛!され、翌年の1990年にも再演されたほど素晴らしい舞台でした。

1991年にも『ソングデイズ』の舞台で主演しています。歌手として、時には女優として順調且つマイペースな活動を続けていたちあきなおみさん。

1992年、最愛の夫郷鍈治さんが他界され、「主人の死を冷静に受け止めるには、まだ当分の時間が必要かと思います」とのメッセージを残して芸能活動を休止。以後ファンの前にその姿を現していません。

最愛の夫郷鍈治さんが荼毘に付されるときに、ちあきなおみさんが、棺にしがみついたまま号泣し「私も一緒に焼いて!」と叫んだことは、ファンの誰もが知っている話だと思います。そこまで愛された郷鍈治さんはお幸せな方ですね。

でもそれだけに、愛する妻ちあきなおみさんを残していくのは、どれだけ辛く心残りだったか・・・人の別れは辛いものですが、愛するもの同志が直面する永遠の別れは尚悲しい!

情念を込めて歌うちあきなおみさんの心に潜む陰・・・

誰もが復帰を待ち望む歌姫ちあきなおみさん。

ちあきなおみさんの歌を聞いた方は、歌の情景がすぐさま目に浮かぶ筈・・・辛い!苦しい!悲しい!嬉しい!楽しい!などの気持ちが、聞き手の心に伝わる表現力の凄さ。

聞き手はちあきなおみワールドに引き込まれてしまい、あたかも自分が、喜び嘆き悲しんでいるような気持にさえなってしまうほどの歌の上手さ!

ちあきなおみさんの表情は歌詞の内容に伴って、百面相のように変化していきます。そして体全体で表現しています。それは歌うのではなく語っているからです。

わたしも歌をかじっていた頃は、「詩は歌え!歌は語れ!」と教えられてきました。歌詞に込められた思いを読み取り、歌詞に刻まれた思いのたけを語り聞かせる・・・それが歌だと。

ちあきなおみさんは、女の執念、情念を、凄まじいと思うばかりに表現しています。歌詞の持つ意味を自分のものにした上で、語り聞かせているからだと思います。

わかりやすく言えば、女優さんを想像して下さい。その役の人物になり切り、泣いたり笑ったり叫んだりしていますよね。歌手も同じで、歌詞の意味を理解して、演じるように語っているのですから。

下記画像元のアドレス ⇒ https://is.gd/YKxtgj

ちあきなおみさんの歌は楽しい歌より、心の中を吐露するようなものが多いですよね。人生の岐路に立たされたり、恋に破れたり、愛しい人に先立たれたり、貧しさに苦しんだリ・・・辛い境遇に立たされた人の心を歌うものが多いと思います。

子供時代のちあきなおみさんは、家庭環境には恵まれていなかったかも知れません。お父様に関する情報が、あまりいいものではないからです。窃盗癖があり前科があったと言われていました。ただ、どこまでが本当なのか、定かではありません。

ちあきなおみさんは東京都板橋区生まれですが、小学二年生の時に、神奈川県藤沢市辻堂へ引っ越しています。小学生時代は藤沢で過ごし、中学時代は二度も引っ越していました。

小学校:藤沢市立辻堂小学校。
中学校:藤沢市立湘洋中学校
東京都大田区立大森第三中学校(中学二年生の時に転校)
東京都新宿区立大久保中学校(中学三年生の時に転校)
高校時代の情報は出ていません。

ちあきなおみさんのお父様は、噂では、いい方ではなかったようですね。若いころからほとんど働かない方で、ついには娘姉妹を捨てて出奔してしまったと聞いています。娘時代の辛い思いでとして、胸の奥深くしまい込まれているのかも知れません。人生いろいろ・・・です。

まとめ

もうかなり前になりますが、ちあきなおみさんの歌声がテレビに流れましたね。
『熱唱!孤高の歌姫伝説 ちあきなおみ歌の世界』そのようなタイトルだったでしょうか。
心の奥に染みわたるような歌・・・久しぶりに聞いて涙がこぼれそうになりました。

7分間ノーカットで放送された『ねえあんた』ですが、噂によれば、ちあきなおみさんの歌を愛してやまない郷鍈治さん(故人)のたっての希望で、つくられた歌だと聞いたことがあります。

「矢切りの渡し」を最初に歌った細川たかしバージョンは、素人でも簡単に歌えるように作られたもの。ちあきなおみさんの「矢切のわたし」は、何でも歌いこなせるちあきなおみさん用に、難しくアレンジされたものだと、作曲家の船村徹さんがテレビで話されていました。

その船村徹さんも残念ながら亡くなられてしまいました。その後で船村徹作品を集めたアルバム『ちあきなおみ 船村徹をうたう』がリリースされています。アルバムも嬉しいですが、できれば生歌を聴きたいい!

ちあきなおみさんの「矢切のわたし」が知られるようになったのは、モノマネ芸人のコロッケさんが、「ちあきなおみ」ネタで人気を博し、ちあきなおみさんが話題になったことからです。

ちあきなおみさんは現在、何も仕事をされていないのですが、生活はどうされているのと心配されている方もいますが、心配無用のようですよ。

印税だけでも年間1500万くらいは入ると聞いています。復刻版なども出ていることを考えれば、もっとあるのかもしれません。それにビルを所有されているので、家賃収入もあるようですから。

表舞台から姿を消して27年・・・今も尚ちあきなおみさんの復帰を待ち続けているのは、ファンだけじゃないのです。ファン以上に待ち続けているのが、ちあきなおみさんの「凄さ!」を知る音楽関係者。

音楽業界の方々が何度も復帰を促されているそうですが、頑として拒み続けていると週刊誌などで報道されていたそうです。

ちあきなおみさんの「冬隣り」、ファンの方ならご存知だと思います。「冬隣り」の歌詞も覚えていらっしゃいますでしょうか・・・下記に記した歌詞はサビの部分です。

地球の夜更けは淋しいよ
そこからわたしが見えますか
この世にわたしを置いてった
あなたを怨んで呑んでます

夜のとばりが下りた空を見上げながら、手の届かない遠い世界の郷鍈治さんを偲び、思わず涙ぐまれている・・・そんな姿を想像して切なくなってしまいました。

夫と永遠の別れをして間もなく、お墓近くのマンションに住いを移したちあきなおみさんは、まるで「世捨て人」のように、ひっそりと暮らし、月命日には欠かさず、墓前で手を合わせながら1時間近くも過ごしていると聞きました。

最愛の夫郷鍈治さんに何か語り掛けているのでしょうか「ねえ、あんた」って。直接返ってくる言葉はなくても、ちあきなおみさんの心には、郷鍈治さんの言葉が響いているのかも知れません。亡くなられてから27年この状態が続いているそうですから、それはまた凄い!こと。

愛がなければ続けることなんてできません、無理です。ここまで人を愛せるなんて凄いと思います。逆に羨ましいくらいです。一途な思いを抱き続ける凄さに完敗!

なくなる直前に夫の郷鍈治さんが残した言葉が「もう、無理に歌わなくてもいいんだよ」だったとか。でもこれは、郷鍈治さんの最後のプレゼントだったとも思えるのです。

実は、ちあきなおみさんは結婚当初、歌手を辞めるつもりでいたところ、ちあきなおみさんの歌が好きでたまらない郷鍈治さんに、もっともっと歌を聞きたいから続けて欲しいと言われ、引退を思いとどまったという、いきさつがありましたから。

だから、ちあきなおみさんが今の生活でいいと考えていらっしゃるのなら、それでいいのかな。確かにファンとしては生歌が聴きたい思いはありますけれど、諦めてアルバムの歌を聴きましょうか。

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