日本経済の父と呼ばれている渋沢栄一氏は新壱萬円の顔となる方。

明治時代に第一国立銀行創設、学校、病院など、500以上もの会社設立に携わり、近代日本の発展に貢献。渋沢栄一氏を抜きにして日本の経済界は語れないほど大活躍した偉人。

1918年。渋沢栄一氏は「田園都市株式会社」という会社を設立。郊外の理想的な住宅地である「田園都市」の開発が目的で東京南部の洗足に分譲地を建設しています。

高速道路どころか、車さえない時代で、移動手段は徒歩と鉄道しかなかった。この当時の日本は人口も、まだ大都市に集中していなくて、各都市ごとに鉄道を走らせていました。

郊外の住宅地から都心の職場に通うための鉄道が必要になり、「田園都市株式会社」が新たな鉄道路線を建設したのが「目黒蒲田電鉄」。その後、目黒蒲田電鉄の経営は五島慶太氏に委ねられ、後に東急目蒲線、そして現在の東急目黒線・多摩川線につながっています。五島慶太氏は東急グループ創始者。

上記に記したように渋沢栄一氏は、銀行、病院、学校、会社などの設立に携わり、高級住宅地の開発もしています。実業界のドンでもあり、近代日本の発展に貢献した方ですが、生まれた時代や、育った環境、同じ時代には、どのような人物がいたのか・・・などについても調べてみましょう。

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渋沢栄一が残した数々の功績!銀行 鉄道網 学校 会社設立 田園調布開発!

渋沢栄一氏は1867年(慶応3年)に渡欧しています。そこで、最先端の科学技術や経済の制度を学び、帰国後は、その知識を活かして近代日本社会や経済の基礎作りに大きく貢献しています。

渋沢栄一氏が残した数々の功績。
渋沢栄一氏が携わった学校、病院、会社などの設立は500以上にものぼるそうです。この中には多くの鉄道会社(私鉄)が含まれているようです。

また、田園調布などの高級住宅地の開発をしたあと、通勤の足となる鉄道を開設すると、全国に鉄道を作り続け、北は北海道から南は九州まで、日本鉄道網の基盤を全国に築きました。

日本鉄道(にっぽんてつどう)は、日本初の私鉄であり、現在の東北本線や高崎線、常磐線など、東日本の東日本旅客鉄道(JR東日本)の路線の多くを建設・運営していた会社ですが、渋沢栄一氏も日本鉄道の仕掛け人の1人だったそうです。

この、日本鉄道に携わったのを皮切りに次々と、多くの私鉄事業者の設立に関わり、日本の鉄道網の基礎作りに携わっているのです。北海道炭礦鉄道や北海道鉄道、現在の日光線にあたる日光鉄道、両毛線の両毛鉄道、筑豊本線の筑豊鉄道、参宮線の参宮鉄道、身延線の富士身延鉄道・・・などなど。

1872年に、新橋~横浜間を日本で初めて列車が走りました。この時につくられた鉄道唱歌があるのですが、歌詞は何と66番まであるので、ちょっと驚いてしまいました。興味があればアドレスをクリックしてみてね。https://is.gd/4D5qxE

中でも、1873年(明治6年)に創設された「第一国立銀行」は、日本最初の近代的な銀行として有名。この周辺には日本で最初の株式取引所(現東京証券取引所)や、数多くの会社が次々と設立されるなど、兜町は日本経済の中心地として発展していきます。

第一国立銀行(現在のみずほ銀行)創設は、当時の紙幣頭&大蔵大丞だった渋沢栄一氏が立案し、1872年(明治5年)11月に公布された国立銀行条例によって創設された日本最初の銀行。

名前は「国立」ですが、実は完全な民間経営で、江戸時代から両替商をしていた三井組と小野組を中核にして設立されました。ちなみに資本金は双方が100円ずつ、一般からの応募金44円をあわせた244円。このような経緯から日本初の株式会社と呼ばれることもあるそうです。

第一国立銀行は民間企業でありながら、当初は紙幣の発行も認められていました(ただし兌換紙幣で、金との交換が条件)でした。

♦兌換紙幣とは、金や銀などの正貨(本位貨幣)との引き換えが保証されている紙幣のこと。 これは、金本位制や銀本位制において、中央銀行が発行した紙幣と同額の金や銀を常時保管して、発行者の信用で同額の金貨や銀貨に交換することを約束した紙幣を指します

第一国立銀行の建築は清水組(現在の清水建設)が請け負いましたが、設計も施工も全て全員日本人だけで手掛けています。木骨石造とベランダ、それに日本の屋根に塔を組み合わせた建物は、擬洋風建築の最高峰だと言われ、錦絵にも描かれた東京の名所だったそうです。

渋沢栄一氏が「田園都市株式会社」という会社を設立したのは1918年。郊外の理想的な住宅地である“田園都市”の開発が目的で、実際に東京南部の洗足に分譲地を建設。

洗足田園都市と名付けられた最初の住宅地開発は、渋沢栄一氏にとっては不満が残り、第2弾として多摩川台の造成が進めらました。開発後は田園調布と名を変えた多摩川台は、理想の高級住宅街になったのです。田園調布は金持ちの象徴として語られるようになっいきます。

渋沢栄一氏によって開発が進められた田園調布は、駅を中心にエトワールの道路が整備されています。整然とした田園調布の街はいかにも計画都市といった趣があるそうです。
♦エトワールとは:パリ凱旋門付近の環状道路と放射線状道路を組み合わせた形式のこと。

田園調布を完成させ役目を終えた田園都市株式会社は、1928年に子会社として設立した目黒蒲田電鉄に吸収される形で幕を下ろしました。

渋谷栄一が生きた1840年~1931年!この時代の前後に何が起きていたのか?

渋沢栄一氏が生まれたのは1840年ですが、そのわずか1年前の1839年 (天保10年)には、 蛮社の獄(ばんしゃのごく」と呼ばれる事件が発生していました。

蛮社の獄(ばんしゃのごく)は、1839年(天保10年)5月に起きた言論弾圧事件です。高野長英、渡辺崋山などが、モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判したために、捕らえられて投獄され罰を受けています。

そして、さらにもう1年さかのぼった1837年 (天保8年)には、歴史で習った 大塩平八郎の乱がありました。渋沢栄一氏が生まれる2年前です。

大塩平八郎(おおしおへいはちろう)の乱とは、1837年(天保8年)は・・・まだ江戸時代でした。大坂(現在の大阪市)で、大坂町奉行所の元与力大塩平八郎と、その門人らが起こした江戸幕府に対する反乱ですが、 「大塩平八郎の乱」または「大塩の乱」とも言われています。

1837年は大飢饉で大坂にも餓死者が続出。東町奉行跡部山城守良弼は救済策を講じるどころか、大量の米を江戸へ回送、米を買占めた豪商らは暴利を得ていました。

大塩平八郎は、再三窮民救済の嘆願を行いますが聞き入れられず、門弟の与力や同心、近辺の富農と組みます。挙兵前に蔵書を売払い金 620両を得ると、窮民1万軒に1朱ずつ分配しました。

挙兵した大塩一党は近隣の農民に参加を呼びかけ,およそ 300人とともに天満に放火して気勢をあげ,船場に近い豪商を襲って金穀を奪います。

これに対し,大坂城代の土井 大炊利位(どい としつら)は、隣接諸藩に来援を求め,城兵は西町奉行堀伊賀守利堅の指揮下に銃をもって応戦し鎮圧しました。

この乱で大坂市内の家屋1万戸が焼失。大塩平八郎たちは逃げ延び市内に潜伏していましたが、相次いで逮捕されたり自首しています。大塩平八郎は隠れ家を襲われて自決・・・した事件。

渋沢栄一氏は、大塩平八郎事件の2年後に生まれましたが、13才になった頃・・・1853年 (嘉永6年)に黒船が来航しています。

そして江戸時代後期の1850年代(安政年間)には、日本各地で地震が連発していましたが、安政江戸地震は、特に1855年(安政2年)発生した江戸地震のことを指すようです。

大老の井伊直弼は、朝廷の許しをえずに日米修好通商条約を結び、第13代将軍の跡継ぎを勝手に決めるなど強引な政治を行っていました。このやり方に反感が高まっていたのですが、反対する大名や公家をきびしくとりしまったのが1858年 (安政5年)に起きた安政の大獄事件

井伊直弼は尊王攘夷を主張する長州藩士の吉田松陰や福井藩士の橋本左内などを死刑にしたのです。これが井伊直弼の「命とり」となり、1860年の桜田門外の変が起きます。

1860年桜田門外の変(万延元年)・・・が起きた1年後に、渋沢栄一氏は江戸に出ています。
安政7年3月3日(1860年3月24日)、江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で水戸藩からの脱藩者17名と、薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃して、大老井伊直弼を暗殺した事件。

渋沢栄一(しぶさわ えいいち)。
生年月日:1840年3月16日(天保11年2月13日)。
出身地 :武蔵国榛沢郡(現在の埼玉県深谷市)。
結婚  :1859年、19才の時結婚。

儒学者 :1861年江戸に出て、海保漁村の門下生に。
剣道  :北辰一刀流 千葉栄次郎道場に入門。勤皇志士と交友を持つ。

宮仕え :一橋慶喜に仕える(一橋家家臣の推挙された)。
渡航  :1867年、将軍一橋慶喜の弟が、パリ万国博覧会に出席する時に随行。
大政奉還:1867年11月、一橋慶喜が「大政奉還」を建白。政府から帰国命令があり、1867年12月に帰国。
建白  :政府などに自分の意見を申し立てる内容を記した書面のこと。

渋沢栄一氏は「大政奉還」した一橋慶喜から、好きな道を歩めと言われ、株式会社制度を実践するため商法会所設立したのですが、大隈重信に説得されて大蔵省に入省しています。

大蔵省入省 :大隈重信に説得されて入省。
大蔵省退官 :度量衡制定や国立銀行条例制定に携わる。予算編成巡り大久保利通や大隈重信と対立し退官。

銀行頭取就任:1873年、第一国立銀行(第一銀行⇒第一勧業銀行⇒現在のみずほ銀行)頭取に就任。
その後、東京海上火災保険、王子製紙、東急電鉄、秩父セメント、帝国ホテル、東京証券取引所、キリンビール、東洋紡績など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上。

しかし渋沢栄一氏は、他の財閥創始者のように、渋沢財閥を作っていません。「私利を追わず公益を図る」と言う信念を、生涯に亘って貫き通し、後継者にもこれを固く戒めたそうです。

渋沢栄一氏は、1931年11月11日(昭和6年)、91才で亡くなられています。

まとめ

2024年に新壱萬円の顔になるのが渋沢栄一氏。
日本経済の父と呼ばれている方ですが、明治時代には第一国立銀行、学校、病院など、500以上もの会社設立に携わった実業界の「ドン」的な存在。渋沢栄一抜きにして日本の経済界は語れないほど大活躍した偉人。

渋沢栄一(しぶさわ えいいち)。
生年月日:1840年3月16日(天保11年2月13日)。
出身地 :武蔵国榛沢郡(現在の埼玉県深谷市)。

第一国立銀行の創設。
学校、病院など、500以上もの会社設立。
高級住宅地の開発。
鉄道網の基盤作り。
上記のように近代日本の基礎を作るために貢献し、日本経済の父と呼ばれているのです。

渋沢栄一氏は、将軍一橋慶喜に仕え、1867年には、一橋慶喜の弟がパリ万国博覧会に出席する時に随行。「大政奉還」した一橋慶喜から、好きな道を歩めと言われ、株式会社制度を実践するため商法会所設立したのですが、大隈重信に説得されて大蔵省に入省。

大蔵省では、度量衡制定や国立銀行条例制定に携わりますが、予算の編成巡って、大久保利通や大隈重信と対立したため退官しました。

大蔵省を退官すると1873年に銀行頭取に就任しています。現在のみずほ銀行ですが、当時は日本で最初に創設された第一国立銀行です。

その他にも、養育院の院長を務め、東京慈恵会、日本赤十字社などの設立にも携わりました。一橋大学、東京経済大学の設立に協力していますが、女子教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと女子教育奨励会を設立し、日本女子大学、東京女学館の設立にも携わっています。

渋沢栄一氏は他の財閥創始者のように、渋沢財閥を作りませんでした。「私利を追わず公益を図る」と言う信念を、生涯に亘って貫き通し、後継者にもこれを固く戒めたそうです。渋沢栄一氏清廉潔白ですね!

清廉潔白とは:心が清くて私欲がなく、後ろ暗いことのまったくないさま。
「廉」は私欲がなく、けじめがついているさま。
「 潔白」は心や行いがきれいで正しく、やましいところがないさま。

上に立つ人が渋沢栄一氏のような方なら、どんなにか嬉しいでしょう。きっと誰もが、前途洋々の人生を歩めるようになるかもしれません。前途洋々とは:これからの人生が明るく開けていること。

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