あなたはご存知でしょうか、アナウンサーの久米宏さんを。

黒柳徹子さんと共に、伝説の歌番組と言われている「ザ・ベストテン」の司会を務めていた久米宏さん。そして、報道ステーションの前身「ニュースステーション」で、18年半キャスターを務めてこられた方です。でも、10代や20代前半の若い方は、名前も知らない・・・かも知れませんね。

1978年1月スタートしたのが、伝説の歌番組と言われている「ザ・ベストテン」。
1978年1月19日~1989年9月28日、毎週木曜日の21:00 ~21:54 に放送。
「ベストテン」「ベッテン」「ザベテン」などと呼ばれ、第11回テレビ大賞優秀番組賞受賞。

歌番組が10年半も続いたと言うのも驚きですが、めちゃ高い視聴率を誇っていました。凄かったのです。最高視聴率41.9%:ビデオリサーチ調べ:関東地区の世帯。

「ザ・ベストテン」は、嘘のないランキングが視聴者の心を捉え、日本の音楽シーンを変えたと言われています。生放送でしたから、ハプニングもあり、歌手の素顔も垣間見えたりすることでも人気がありましたが、さらに、司会の黒柳徹子さんと久米宏さんの、丁々発止のマシンガントークが視聴者の人気を高めました。

このマシンガントークが生まれたのは、1位の発表直前には時間が無くなり、久米宏さんと黒柳徹子さんの会話が、ドンドン早くなっていったからだと話されています。

「ザ・ベストテン」は11年間放送されましたが、久米宏さんは「ニュースステーション」のキャスター就任のため、7年ほどで降板されました。

「ニュースステーション」:「Nステーション」。
1985年10月7日~2004年3月26日(昭和60年~平成16年)まで18年以上。
平日(祝日も含む)22時台に生放送されていた報道番組です。

久米宏さんは、「ニュースステーション」の構想段階から携わっていらっしゃったので、思い入れは相当深かったでしょう。1988年からは、メインキャスター久米宏さん、サブキャスター小宮悦子さんでした。

当初は月曜~木曜22:00から23:17、金曜日は23:00~0:00で、放送時間が違いました。1988年4月4日から新体制となり、全ての曜日を22:00 ~23:17放送に統一して、報道中心の構成に変更されています。

初期には手書き・手作りといったアナログ感を重視していたそうですが、コンピュータグラフィックスなども順次取り入れ、最新技術を積極的に導入しています。

また、従来の番組や新聞との差別化を図るために、番組の基本姿勢は、久米宏さんのコメントや、マスコミ人として久米宏さんが持っている、反権力そして反戦争の信条を色濃く反映したものだったそうです。

そのため、幅広い人気を博しましたが、その一方では、自民党や保守派などからは、報道内容が偏っているとの根強い批判や反発もありました。

久米宏さんが歩いてこられた道筋をたどりながら、病気などの噂もあるので、今現在は、どうされているのか調べてみましょう。

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黒柳徹子 久米宏 マシンガントーク!サービス精神で41.9%の高視聴率!

久米宏さんはこんなことを話されていました。「ザ・ベストテン」がなかったらフリーになっていなかったし、フリーでなければ「ニュースステーション」もなかっただろうと。

実は、久米宏さんは「ザ・ベストテン」の前にやってた番組でも、歌の司会をされていたのですね。その番組が終わるころには、もう、歌番組はもうやらないと思っていたらしいのです。

歌を中心に聴かせるのが音楽番組で、司会はいらないと思っていたそうですが、「黒柳徹子さんが久米宏さんと一緒にやりたいと言っている」と、オファーがありました。

生番組に魅力感じていたことと、以前から黒柳徹子さんとはラジオ番組で親しくしていたこともあり、何となく予感はあったといいます。いつか黒柳徹子さんと番組をやることになるだろう・・・と。

21:00 ~21:54放送「ザ・ベストテン」の進行は、10位から始まり最後に1位の紹介をします。10位、9位、8位までは時間に余裕があり、ゆったり紹介。

歌に合わせたセットの準備や、歌手へのインタビュー時間も必要でしたが、5位を紹介する頃には、残り時間が少なすぎることに気がついたそうです。

生番組なので。移動途中の新幹線の中で歌うなどのハプニングもありました。また、紹介していく中で、面白い場面は引き伸ばして放送するようにしていたと言います。

常に視聴者目線でのサービスを考えた番組でしたから、凄い人気で、最高視聴率41.9%と言う、凄い数字を記録したのです。みる側にとっては、今日は、どこでどんなハプニングが起きるのか・・・なんて、期待しながら見てしまいますよね。

サービス優先で放送していくと、4位、3位、2位とすすめるうちに、1位を紹介する時に「残り時間20秒」なんてこともあったそうです。それに応じて黒柳徹子さんと久米宏さんのトークが、ドンドン早くなりマシンガントークになっていったらしいのです。

1度、時間の無駄遣いを経験したのだから、2回目以降は学習してきちんと考えてやる・・・というのが普通だと思いながらも、毎回同じことの繰り返しだったそうです。何故なら、久米宏さんと黒柳徹子さんは「サービス精神第一で、後のことは考えないようにしよう」・・・と思っていたから。

黒柳徹子さんと久米宏さんのコンビは7年くらいですが、後半になるといつも時間が不足してしまうので、絶妙なマシンガントークに発展した・・・そうです。これが、とても人気があったのですから、面白いですよね。「そうなんだ!」と、今更ですが笑ってしまいます。

久米宏さんは「ザ・ベストテン」の司会をやってて良かったと、毎回思っていたそうです。番組が終わると、まるで走り込んだ後のように汗びっしょりで、着替えるときに、解放されたような何とも言えない気持ちよさがあったのだとか。( ´艸`)

「ニュースステーション」常識を打ち破る取り組みだった!

「ニュースステーション」をやるために「ザ・ベストテン」を降板した久米宏さん。
放送時間の関係で、ベストテンを辞めないとできなかったため、後ろ髪を引かれる思いで降板されたのでしょうね。

「普通は、フリーの司会者が、ベストテンのような高視聴率番組を降りるなんてあり得ないことだし、黒柳さんと共にベストテンの司会ができるなんて、ノーギャラでもいいから、誰もががやりたいと思っていた仕事だった」と、久米宏さんは話されていたようです。

従来の常識を打ち破るかたちで始まった「ニュースステーション」は、テレビ朝日、番組制作会社オフィス・トゥー・ワンが構想を練ると言う、過去に例がなかった取り組みでした。報道番組の関係者以外の外部プロが参加することなど、考えられないことだったのです。

噂では、番組制作会社オフィス・トゥー・ワンには、何十億という巨額の制作費が支払われ、オフィス・トゥー・ワンに所属していた久米宏さんは、構想の段階から携わっていたので、ギャラも年間で5億くらい・・・だろうと取沙汰されていました。

久米宏さんがキャスターを務め、小宮悦子さんがサブキャスターで、報道番組「ニュースステーション」はスタートしました。

放送当初は月曜~木曜22:00から23:17、金曜日は23:00~0:00で、放送時間が違いました。1988年4月4日から新体制となり、曜日に関わらず全て「22:00 ~ 23:17」に放送するように統一され、報道中心の構成に変更されたのです。

「ニュースステーション」では、中学生でもわかるニュースと言う考え方を基にしてつくられ、政治、経済など難解な用語や展開などを、図示的な説明やグラフを記した大型のカードや、地図・模型・実物・政治家人形・積木などを使って、わかりやすく伝える工夫がされていました。

初期の頃は、手書きや手作りといったアナログ感を重視していましたが、コンピュータグラフィックスなども順次取り入れるようになり、最新技術を積極的に導入するようになったのです。

1998年3月27日、小宮悦子さんは「スーパーJチャンネル」メインキャスター就任のため降板。TBSを退社して米宏さんと同じオフィス・トゥー・ワンに所属した渡辺真理さんが、後任のサブキャスターに就任し、最後までコンビを組みました。

番組の基本姿勢は、久米宏さんのコメントや、マスコミ人として久米宏さんが持っている、反権力そして反戦争の信条を色濃く反映したものだったそうです。

従来の番組や新聞との差別化を図ることが目的でしたが、久米宏さんが持つ、反権力や反戦争の内容が色濃く反映されていたので、自民党や保守派からは「内容が偏っている」と批判され、抗議も受けました。

また、いくつかの騒動が持ち上がることもあったようですが、どのようなものであったのか迄はわかりません。このようなことが積み重なり、自民党や保守派からの批判や抗議も相次いで、「ニュースステーション」は姿を消すことになったのかも知れません。

降板会見について久米宏さんは「「十二分にやった」「スタミナ切れ」「2000年1月からの3年契約がすでに終了している」など、いくつかの理由を話されましたが、一方で、ギャラ問題と外部スタッフが関わる番組制作体制が、問題だったのではないか・・・などと、憶測されていました。

久米宏(くめ・ひろし)
生年月日:1944年7月14日 。
出身地 :埼玉県浦和市。
血液型 :A型。
1967年 :TBS入社。
1978年~1985年まで「ザ・ベストテン」の司会。
1980年~1987年:「おしゃれ」の司会。
1985年~2004年:18年半「ニュースステーション」の司会(TBSを辞めてフリー)。
ドイツ親善大使なども務めていました。

実は、久米宏さんはアナウンサーになりたいと思っていなかったらしいのです。

久米宏さんは学生時代から英語が得意だったので、卒業後は外国人あいての観光業でもやろうかな・・・なんて考えていたそうです。お母様を安心させるために大学4年生の時、アナウンサーを募集していたニッポン放送とTBSを受けたと言います。

形だけの終活のつもりだったのですが、TBSの採用が決まり、アナウンサーになったそうです。ちなみにニッポン放送は、最終面接に遅刻して不合格だったとか。

アンチ巨人の久米宏!公約厳守 丸坊主になりジャイアンツ\(^o^)/叫ぶ!

私生活では、1981年に久米宏さんの愛人が、妻との離婚を迫って、睡眠薬を飲み手首を切ると言う事件があり、3週間番組に出演せず謹慎しています。

久米宏さんは、1989年「ジャイアンツが優勝したら丸坊主になる」「ジャイアンツが日本シリーズを制したら、徳光和夫さんがキャスターを務める番組に出て、ジャイアンツ\(^o^)/と叫ぶ」など、「ニュースステーション」の企画「ジャイアンツエイド1989年」で公約していました。

そして1989年10月、ジャイアンツが優勝して、日本シリーズも制覇したので、公約通り丸坊主になり、徳光和夫さんがキャスターを務める番組に出て、「読売ジャイアンツ、バンザーイ」と叫んだのです。

ことの発端は番組コーナーの「ジャイアンツエイド89」。Nステがスタートした当時、王貞治監督時代には、1985年3位、1986年2位と優勝を逃し、1987年にようやく優勝を果たしたのですが、1988年には中日に大差をつけら2位。王監督は引責辞任に追い込まれました。

そんな巨人が勝つにはどうしたらいいか。黒鉄ヒロシさん、糸井重里さん、川崎徹さんの熱狂的な巨人ファンをゲストに招いて、勝手に応援するコーナーが「ジャイアンツエイド89」でした。もっとも、久米宏さんは広島のファンで巨人ファン3人と対決する形で進行。

開幕直前の4月4日のこと久米宏さんは「万が一にもあり得ないことですが、もし巨人が優勝したら、丸刈りになります。日本一になったら徳光さんの番組に出て万歳をします」と宣言してしまった。

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実は、巨人の優勝に絡む公約騒ぎは、久米宏さんがが初めてではありません。
熱狂的巨人ファンとして知られる徳光和夫さんは1982年、巨人が優勝を逃し丸刈りになっています。
1988年4月4日の「N1ステ」では、黒鉄ヒロシさんは、ジャイアンツが優勝できなかったら「1年間ジーパンをはかない」と公約。

川崎徹さんは「福神漬けを断ち、100万円を優勝監督に贈る」と公約。
糸井重里さんはなんと、「フンドシ姿で六本木を走る」と口走ってしまいました。実際、糸井重里さんは巨人が2位になった際に、公約通りフンドシ姿で走らされてしまったのです。

久米宏さんは「けじめ」をつけたと言うことで、ワイドショーで取り上げられ、「けじめ」と言う言葉がひんぱんに使われるようになったのです。そしてその年(1989年)の「現代用語の基礎知識、流行語部門」で「けじめ」が銀賞を獲得。「けじめ」の代表例として久米宏さんの名前が表記されました。

わたしも知らなかったので「ええっ!」って思いました。もっとも、この現象は流行語部門においてのことですから、一般的に使われる辞書には、久米宏さんの名前はないでしょう。今でいう「流行語大賞」的なものですから。

まとめ

黒柳徹子さんと共に、伝説の歌番組と言われている「ザ・ベストテン」の司会を務めていた久米宏さん。

1978年1月19日~1989年9月28日、毎週木曜日の21:00 ~21:54 に放送。
「ベストテン」「ベッテン」「ザベテン」などと呼ばれ、第11回テレビ大賞優秀番組賞受賞。

歌番組が10年半も続いたと言うのも驚きですが、めちゃ高い視聴率を誇っていました。凄かったのです。最高視聴率41.9%:ビデオリサーチ調べ。

時間が合わず「ザ・ベストテン」を7年で降板した久米宏さんは、その後「ニュースステーション」のキャスターを18年以上も務めています。「ニュースステーション」の番組降板会見で「十二分にやった」「スタミナ切れ」「2000年1月からの3年契約がすでに終了している」など、降板理由を説明されていました。

「ニュースステーション」の終了後は、テレビ出演がなくなり、病気ではないかなどと言う噂が流れたこともありますが、何事もなくお元気のようです。

久米宏さんは今も、ラジオなどで活動されていますよ。

TBSラジオで、毎週土曜日の13:00~14:55のTBSラジオで「久米宏ラジオなんですけど」と言う番組。2時間にも及ぶ長い時間ですが、タブーなしのトーク番組。インタビューで久米宏さんが、話題の人にドンと切り込むなど、久米宏ワールドですね。

ただ、テレビで拝見することが無くなって久しいので、10代20代の方は「知らない」と答える方が多いでしょうね。わたしなども、どうされているのかな・・・って、ふっと思い出すこともあり、調べてみたらお元気で活動されていたので、これからも可能な限り頑張っていただきたいなと思います。

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