北里柴三郎 鉄道馬車が走る時代 第一回ノーベル賞ノミネート!新千円札の顔は細菌学の父北里博士!

新千円札の顔北里柴三郎氏は、男爵の称号を持つ日本の医学博士。

ペスト菌を発見し、破傷風の治療法開発など細菌学分野で功績を上げ、伝染病予防と治療など感染症医学の発展に貢献した北里柴三郎博士は「日本の細菌学の父」と呼ばれている方。

北里柴三郎博士は、1901年の第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補者(15名の内の1人)にノミネートされましたが、これは、1949年(昭和24年)に、湯川秀樹博士がノーベル賞を受賞された時より48年も前なのです!!

北里柴三郎博士が、1901年の第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補にノミネートされたことが判明したのは、ずっと後になってからのこと。

下記アドレスをクリックすると、ノミネートされたていたことが判明したと言う読売新聞の写真が見られます。1988年3月28日の日付になっています。 https://is.gd/9jfCwk

また、北里柴三郎博士には、高名な弟子が何人もいます。
下記に名前を上げましたが、詳細は、高名な弟子たちのところ・・・を見て下さいね。

秦 佐八郎 (はた さはちろう)  医学博士。
北島 多一 (きたじま たいち)  医学博士。
志賀潔   (しが きよし)    赤痢菌を発見した医学者。
宮島幹之助 (みやじま みきのすけ)寄生虫学者。
野口英世  (のぐちひでよ)    黄熱病や梅毒の研究で知られる医学博士。

北里柴三郎博士の母は、豊後森藩士加藤海助の娘ですが幼少時は江戸で育ちました。度量が大きくて、小さな物事にこだわらない性格。柴三郎の指導者としての性格は母譲りかも知れません。

北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう)。
生年月日 :1853年1月29日(嘉永5年12月20日)。
出身地  :熊本県阿蘇郡小国町(現在の地名)
学  歴 :熊本医学校入学 ⇒ 東京大学医学部卒業。
医学博士 :1883年(明治16年)に医学博士となっています。

北里柴三郎の母は教育に厳しかったようです。幼少の頃から親戚の家に預けて厳しい躾を依頼しました。8才になると、漢学者の伯父に2年間預けられ、四書五経を学びます。

漢学者の伯父に預けられてから2年が過ぎ、家に戻るや、ゆっくりする間もなく今度は母の実家(武家)に預けられました。そして、儒学者園田保の塾で漢籍や国書を学びながら4年を過ごしています。

北里柴三郎は幼いころから、母に甘える時間はあまりなかったように思われますが、武家の娘として育った母としては、ごく当たり前の躾、そして教育だったのでしょう。

1869年、北里柴三郎は細川藩の藩校時習館に入寮しましたが、翌年7月廃止されたため、熊本医学校に入学。
熊本医学校時代、当時教鞭をとっていた、オランダ人医師コンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトの指導を受けて医学の道を志し上京。

北里柴三郎氏は東京大学医学部在学時代、学生集会での演説原稿に「人民に摂生保健の方法を教え体の大切さを知らせ、病を未然に防ぐこと」と記し、予防医学の重要性を説いています。演説原稿:『医道論』。

在学中に何度も、教授の論文に口を出していたため、北里柴三郎氏は大学側と仲が悪く、何度も留年させられています。犬猿の仲だったのでしょうか・・・

1886年:ドイツに留学し、炭疽菌の純粋培養や結核菌の発見などで知られる、病原微生物学研究の第一人者、ローベルト・コッホに師事。

1889年:世界初となる破傷風菌の純粋培養に成功。
1890年:破傷風菌の毒素を中和する抗体を発見。そして「血清療法」を開発します。

血清療法:毒素を無毒、弱毒化して少量ずつ注射すると、体内でその抗体が作られ、病気の治療や予防が可能になる。伝染病に対する有効な原因療法が存在しなかった当時、血清療法は画期的な手法。

この血清療法は、破傷風菌だけでなくジフテリアにも応用でき、エミール・フォン・ベーリング(ジフテリアの純粋培養に成功した)と連名で論文を発表。この一連の功績により、北里柴三郎博士は国際的な研究者として名声を博します。

後に、第一回ノーベル賞生理学・医学賞最終候補にノミネートされたのが、このジフテリアの血清療法で、血清療法は北里柴三郎博士が開発した方法の応用でした。

これがきっかけとなり、北里 柴三郎博士は、欧米各国の研究所や大学から多数招待されますが、国費で入学した目的が、日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことでした。北里柴三郎博士は多くの招待を固辞して帰国したのです。

この後は、帰国後の北里柴三郎博士の活躍が、どのようなものだったのか調べましょう。

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福沢諭吉の援助で伝染病研究所を設立したが辞職!私費で北里研究所設立!

北里柴三郎博士は1892年(明治25年)にドイツから帰国。
ドイツに滞在している時に、東大教授 緒方正規が脚気の原因は細菌だとする説に対し、脚気菌ではないと批判したことが原因で「恩知らず」とされ、母校の東大医学部と対立してしまう結果に。

そのため帰国後の日本では活躍の場が限られてしまった北里柴三郎博士。この窮状を聞き及んだ福澤諭吉氏の援助によって、私立「伝染病研究所」が設立されました。

北里柴三郎博士は私立「伝染病研究所」初代所長に。その後、私立伝染病研究所は国に寄付され、内務省管轄の国立伝染病研究所(現在の東大医科学研究所)となります。

1894年(明治27年)に、伝染病予防と細菌学に取り組むため、ペストの蔓延していた香港に政府より派遣された北里柴三郎博士は、病原菌であるペスト菌を発見!

1914年(大正3年)に政府は所長の北里柴三郎博士に相談もせず、突如、伝染病研究所の所管を文部省に移管して、東大の下部組織にすると発表したのです。

東大医学部と北里柴三郎博士の、長年に渡る対立が背景にあると言われていました。国立伝染病研究所(現在の東大医科学研究所)は、医科大学学長であった青山胤通氏が所長を兼任することが決定。

北里柴三郎博士はこれに反発し所長を辞職すると、私費を投じて、新たに私立「北里研究所」(現在は社団法人北里研究所。北里大学の母体)を設立。狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組みました。

1917年(大正6年)北里柴三郎博士は、福沢諭吉から受けた長年の多大なる恩義に報いるため、慶應義塾大学医学部を創設し、初代医学部長、付属病院長となっています。

新設の医学部の教授陣にはハブの血清療法で有名な北島多一博士(第2代慶應医学部長、第2代日本医師会会長)や、赤痢菌を発見した志賀潔氏など北里研究所の名だたる教授陣を惜しげもなく送り込みました。また北里柴三郎博士は、終生無給で慶應義塾医学部の発展に尽力しました。

これまで、反目しあうなどばらばらだった医師会。
1917年(大正6年)に、北里柴三郎博士が初代会長となって、全国規模の医師会として大日本医師会が誕生。また明治以降多くの医師会が設立され、1923年(大正12年)に医師法に基づく日本医師会となります。

また、北里柴三郎博士はテルモ株式会社の設立者でもあります。

1921年(大正10年)9月
北里柴三郎ら医学者が発起人となり、赤線検温器株式会社を設立。

1922年(大正11年)2月
「仁丹体温計」を赤線検温器が製造、森下(仁丹)から発売されました。

1923年(大正12年)
オリンパスの体温計製造分野(渋谷区幡ヶ谷)を買収。

1936年(昭和11年)11月
仁丹体温計株式会社に社名変更。ここから体温計シェアの一角となります。

1963年(昭和38年)12月
株式会社仁丹テルモに社名変更、森下仁丹の医療機器製造部門会社となりました。

1988年3月28日の読売新聞は、北里柴三郎博士が第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補者(15名の内の1人)にノミネートされていた・・・と言う記事を掲載しました。

ところが受賞したのは、ノミネートすらされていなかった北里柴三郎博士の共同研究者、ドイツのE・ベーリング。受賞理由はジフテリアの血清療法。この血清療法は北里柴三郎が開発した方法の応用でした。論文も2人の共著だったのに・・・

後に、北里柴三郎博士が受賞を逃したのは、選考過程で「ベーリングのサポート役に過ぎない」と判断されたことが理由だったと報じられました。

明治34年・・・この頃は、八幡製鉄所は操業を開始したばかり。
蒸気機関車がアメリカから初めて輸入された年でもありました。

一般庶民の服装はと言えば、まだ着物に草履や下駄ばき。そして鉄道馬車が走っていた時代ですよ。
この時代に、北里柴三郎博士は、世界に認められる研究成果を残していたのです。

北里柴三郎氏と世界に名を知られた高名な弟子たち!

北島多一氏:ハブ毒の血清療法を確立しました。
北里柴三郎氏の後継者として、2代目の慶應義塾大学医学部長、そして2代目北里研究所の所も務めました。

1894年東京帝国大学医科大学を首席で卒業と同時に北里柴三郎博士の「伝染病研究所」に入所。
「伝染病研究所」が、内務省から文部省に移管され東京大学に合併される時、移管に反対して北里柴三郎所長が辞任したため、研究所の職員全員が一斉に辞表を提出したのです。

慶應義塾大学医学部主事になって慶應義塾大学医学部の初代院長になった北里柴三郎博士を支えます。1928年慶應義塾大学医学部長。蛇、ハブの抗毒血清の製造に成功する。1953年文化功労者。1956年勲三等瑞宝章受章。北里柴三郎の右腕として手腕を発揮し、北里の死後、北里研究所所長に就任

志賀潔氏:赤痢菌の発見者として知られています。朝鮮総督府医院長、京城医学専門学校校長、京城帝国大学総長などを歴任。

秦 佐八郎(はた さはちろう):細菌学者で、学位は医学博士。
難病だった梅毒の特効薬サルヴァルサン(梅毒の特効薬:砒素化合物製剤606号)を、ドイツのパウル・エールリヒ(1908年ノーベル生理学・医学賞受賞)と共に創製、開発し、多くの患者を救ったことで有名。

生前、1911年にノーベル化学賞と1912年・1913年にノーベル生理学・医学賞の候補に挙がっていたのですが受賞を逸しています。

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宮島幹之助(みやじま みきのすけ):寄生虫学者で、学位は医学博士。
京都大学医学部衛生学教室に入局。指導教官は箕作佳吉教授。宮島幹之助氏は、ツツガムシ病原媒介体としての赤虫の研究を行い、理学部出身者として初の医学博士となっています。

北里研究所の初代寄生虫部長で、1919年の慶応大学医学部開設時にも関与。1929年に予防医学教室の初代就任教授となりました。1921年には国際連盟保健機関の日本代表に。

1923年の関東大震災で自宅は被災しましたが、後藤新平内相の依頼を受けて臨時震災救護部で活躍。
1924年第15回衆議院議員総選挙に当選し代議士になっています。
1938年北里研究所副所長に。1944年12月11日、日比谷公園付近で起きた自動車事故のため急逝。

野口英世(のぐち ひでよ)黄熱病の研究で有名。学位は、医学博士と理学博士。
野口英世博士は、若干20才で医師免許を取得しています。

1898年(明治31年)、北里柴三郎博士が所長を務めていた伝染病研究所に入所。当時は研究には携わらず、 語学堪能だった能力を買われ、外国図書係として、外国論文の抄録、外人相手の通訳、および研究所外の人間との交渉を担当していました。

1900年末頃に渡米してペンシルベニア大学医学部の助手の職に就き、研究者としての名声を得てから、1904年にロックフェラー医学研究所研究員となっています。

主に細菌学の研究に従事し、黄熱病や梅毒の研究で知られています。数々の論文を発表し、ノーベル生理学・医学賞の授賞候補として3度も名前があがっていました。

しかし、黄熱病の研究中に野口英世博士自身も罹患してい、1928年(昭和3年)5月21日、英領ゴールド・コースト(現在のガーナ共和国)のアクラで51歳の若さで死去しました。

まとめ

新千円札の顔は北里柴三郎氏は、男爵の称号を持つ日本の医学博士。
明治・大正時代という日本の近代医学の黎明期に、予防医学の礎を築いた北里柴三郎博士は、1931年6月13日、78歳の生涯を閉じました。

1988年3月28日の読売新聞に、北里柴三郎博士が、1901年の第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補者(15名内の1人)にノミネートされていた・・・と言う記事をが掲載されました。

北里柴三郎博士が亡くなられて57年も過ぎてから、「ノーベル財団の報告資料入手」した読売新聞の記事によってわかった・・・と言うことでしょうか。読売新聞の記事 ⇒ https://is.gd/9jfCwk

第一回ノーベル賞生理学・医学賞の、受賞理由はジフテリアの血清療法でした。ところが、この血清療法は北里柴三郎博士が開発した方法を応用したもの。しかし、受賞したのは、共同研究者エミール・フォン・ベーリング。悔しかったでしょうね・・・

そして、北里研究所設立から101年となる2015年12月、長年にわたり、寄生虫による熱帯病の治療薬の開発に貢献した、北里大学特別栄誉教授の大村智氏が、ノーベル生理学・医学賞を受賞!
姿は見ませんけれど、遥か彼方から、北里柴三郎博士の拍手喝采が聞こえてくるような気がしますね。

北里柴三郎博士が抱き続けた「病気を未然に防ぐことが医者の使命」と言う思いは、北里研究所の中に、脈々と受け継がれてきました。これからも同じ志を持った研究者の方々が、途切れることなく続くことでしょう。

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