志村けんは新型コロナに連れ去られた!わずか2週間で命を絶つ恐ろしいウイルス!

志村けんさん死去!
多くの方々が衝撃を受けられたことでしょう・・・

「嘘でしょう?!」
最初はフェイクニュースかもしれないなんて思ったくらい。でも、テレ朝の番組では取り上げていましたから、「本当なんだ・・・」と。一瞬「がくっ」と力が抜けてしまったほど・・・ショックでしたね。

「天才!志村の動物園」をみて、いつも自然体の志村けんさんの笑顔に癒やされていましたから・・・何だか身内を失ってしまったような侘しさを感じています。

人の命って儚い・・・
20日に入院されて、21日には人工呼吸器が取り付けられていたそうですが、その時すでに、意識はなかったとか・・・そのまま意識が戻ることなく、志村けんさんの命は燃え尽きてしまいました!もの凄いショック!
時間はかかっても「だいじょうぶだぁ」と戻ってくると思っていましたから。

ドリフターズの加藤茶さん、仲本工事さん、高木ブーさんは訃報を聞いて絶句し、すぐにはコメントも出来ないほどショックを受けられている様子だったと・・・苦楽を共にしてきた大切な仲間ですものね。

「天才!志村の動物園」で長年共演されてきた近藤春菜さんは、スッキリの生番組の中で訃報を知らされ、涙でコメント「ハリセンボンが若手の頃から、コント番組もやらせていただいたし、志村の動物園でも、とてもお世話のなっている。志村さんと一緒にお笑いをできて幸せでした。わたしの人生の宝物だと思います」。

志村けんさんと絶妙なコントをみせてきた研ナオコさんは「けんちゃん駄目だった・・・どうしよう・・・」と一言。それ以上の言葉が出てこない。「バナナマン」の設楽統さん、山田邦子さん、恵俊彰さんも、よゐこ浜口優さんなど多くの芸能人が「早すぎるよ!」「信じられない」「信じたくない」とショックを受けていました。

志らくさんは、MCを務める番組の中で・・・「コロナウイルスで亡くなった方は日本中たくさんいらっしゃる。どの命もみんな平等だから、この人がっていうのはまた違う話になってしまうんだけど」と語り、「でも、芸能界にとっても、お茶の間のファンにとっても、こんなことが本当に起きていいのかっていうぐらいの衝撃ですね。残念過ぎます」と。

さらに「自粛要請が出ても『退屈だから表に遊びに行く子』や、『買い物に行っちゃう子』がいるけれど、志村けんさんの死を無駄にしないためには、一人一人が意識高めてこの病気、ウイルスと闘っていかないといけない」と。

そしてまた、
志村けんさんのように人気の高い人でも、新型コロナに感染すると、感染確認後わずか1週間で亡くなってしまう程、怖いウイルスなんだと言うことを理解して、一人ひとりが意識を高めてこの病気と戦っていかなくてはならない・・・とも語っていました。

志村けんさんは、最高の技術を持つ病院で手厚く看病されたにも関わらず、新型コロナに連れ去られてしまいました。顔も見られず声さえ聞けない、遥かに遠いところへ。

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志村けん・・・ドリフターズの付け人からスタート!

志村けん
本名  :志村康徳(しむら やすのり)。
生年月日:1950年2月20日。
出身地 :東京都北多摩郡東村山町:現在は東京都東村山市になっています。
学歴  :東村山第二中学校卒業。
学歴  :東京都立久留米高等学校卒業(新設の高校:一期生)。

志村けんさんのお父様は小学校の教師だったのですね。
3男として生まれた志村けんさん。二人のお兄さんは大学を業後公務員になられています。

お父様はとても厳格な方だったらしく、家庭内はいつも重苦しい雰囲気に包まれていたそうです。しかし、その当時にはまだ珍しかったテレビのお笑い番組で、漫才や落語を観ていた時だけは、重苦しい日常を忘れることが出来たと言います。

「その時だけは父も声を出して笑っていた」と志村けんさんは語っていました。厳格な父が声を出して笑っている姿が、心のなかに残っていたのでしょうか、いつしかお笑い芸人の世界に憧れを抱くようになった志村けんさんは、中学生の頃には、本格的にお笑いを仕事とすることを決心していました。

丁度その頃お父様は、校長への昇進を目指して猛勉強の毎日でしたが、志村けんさんは「つまらない人生だな・・・」と思ってお父様を見ていたそうです。

両親から「お金のかからない都立に行け」と言われた志村けんさんは、新設されたばかりの東京都立久留米高等学校を受験。東村山第二中学校からの受験生は志村けんさんを含めて13人でしたが、教師から「志村は無理だろう」と言われたのだとか。

ところがどっこい・・・ですよ。何と合格したのは志村けんさん唯一人だけだったのです!凄い皮肉ですよね。人の運命なんて本当にわかりません。高校時代の志村けんさんはサッカー部に所属し、GKをしていたらしい。

志村けんさんは実に大胆な行動に出ていました。高校卒業を間近に控えた1968年2月のことです。志村けんさんは、いかりや長介さんの家へ直接押しかけて、弟子入りを志願したのです。

その頃人気だった由利徹さんや、コント55号(萩本欽一さんと坂上二郎さん)、ザ・ドリフターズ・・・どこに弟子入りしようかと迷ったそうですが、音楽性の面からザ・ドリフターズを選びました。

雪の降る中で、いかりや長介さんが帰宅するまで12時間ほど待ち続けましたが、門前払い同然の扱いで容赦なく突き放されたのですが、それでも尚食い下がったた志村けんさん。その根性を認められて、「バンドボーイ」に欠員が出たら・・・という条件で仮採用されました。

一週間後に呼び出された後楽園ホールで、いかりや長介さんから正式採用を告げられた志村けんさんは「じゃあ、卒業したら来ます!」と答えたところ、「バーカ、明日から行くんだよ、青森に!」と言われ、翌日から青森巡業などへ同行させられたのです。

超多忙となって、高校卒業式当日の午前中だけ時間を貰った志村けんさんは、慌ただしく式に出席した後、すぐ仕事に戻りました。

当時のドリフターズは地方巡業が多く、付き人となった志村けんさんは、主に楽器運びやセッティングなど重労働に追わていましたが、メンバーやスタッフがコントをつくりあげていく過程をみながら学んでいたのです。

付き人生活が1年以上が過ぎた頃、お笑いの世界以外にも人生経験を積もうと考えた志村けんさんは、ドリフを離れてバーテンダーなどのアルバイトをしてをしたのですが、そのことを、仲間が伝え忘れていたらしく脱走騒ぎになったのだとか。

1年経って、再び戻ってきた志村けんさんは、加藤茶さんに口添えをして貰っていかりや長介さんのところへ行くと、「2度も弟子入りする奴は、よほど好きなんだろう」と出戻りを認めてくれました。

その後、付き人同士で組んだコントユニット「マックボンボン」を結成して活動していましたが、1年ほどで「ザ・ドリフターズ」の付け人に戻っています。

メンバー見習いですが、その時、志村けんに改名してドリフターズに加入。その翌年・・・1974年にメンバーの荒井注さんが脱退したため、24才で正式にドリフターズのメンバーとなりました。

”8時だヨ 全員集合”の終了後も大活躍!あいつ何してるでは元気な姿!

志村けんさんが正式メンバーになった頃のドリフターズは、「8時だヨ!全員集合」で人気絶頂。メンバーになって志村けんさんは2年ほどは、ギャグが受けなくて悩んでいたらしいのです。

しかし1976年に「東村山音頭」で大ブレークを果たし、一気に人気者になりました。「東村山音頭」は志村けんさんの地元の盆踊りの定番曲をアレンジしたものですが、きっかけになったのが、新潟での公開生放送で「佐渡おけさ」を全員で歌った後に、ゲストやドリフターズメンバーが、それぞれ故郷の歌を歌う・・・というものでした。

「東村山音頭」を歌うにあたり、志村けんさんはリメイクして4丁目を作り上げました。手応えがあったので、いかりや長介さんが3丁目を作詞、作曲されると、1丁目は志村けんさんが作詞、作曲して付け加えたのです。

この3曲を本番でまとめて歌ったところ、「毎回このコーナーで最後に歌った方が良い」と言うことになったのだとか。回を重ねるにしたがって、1丁目、3丁目、4丁目ごとに衣装が作られるまでになって・・・1丁目で志村けんさん様々な衣装を身に着け、観客や視聴者に大受け!

1985年に「8時だヨ!全員集合」は終了しましたが、その後、加藤茶さんとコンビを組み「ひげダンス」「カラスの勝手でしょ(動揺七つの子の替え歌)」などが人気になりましたが、特に子供たちから大人気でした。

「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」「志村けんのバカ殿様」「志村けんのだいじょうぶだぁ」など、いくつもの冠番組を持っていたのです。

志村けんさんが40歳を過ぎた頃、なぜか「死亡説」がささやかれることがありました。レギュラー番組がなくなって、テレビで見かけることがなくなっていたからでしょうね。

2006年になって、長年の夢だった舞台「志村魂」を始めましたが、「舞台は観客の反応が直接感じられるから大好きだ」と語っていました。それ以後「志村魂」は、毎年全国各地を回っていました。

「天才!志村の動物園」も毎週みていますが、3月25日・・・毎週見ている「あいつ、今何してる?」のゲストは志村けんさんでした。ただ、撮影は3月10日に行われたものですと表示されていました。と言うのも、2日前の3月23日に新型コロナに感染・・・と報道されていたからです。

でも、とてもお元気でしたから、新型コロナに感染されていることを忘れていたほど・・・

「あいつ、今何してる?」では、若い頃に結婚迄考えていた彼女がいて、ご両親にも合われていたんですね。その彼女も登場して、いろいろな思い出話をされていましたが、誰一人、志村けんさんが亡くなるなんて、夢にも考えなかったでしょう。

志村けんさんは、元彼女に対して「結婚して幸せだったらいいな」と話されていましたが、元彼女だった方は結婚されて幸せになられていました。元彼女は交際していた当時、ドリフターズに度々出演していた歌手だったのです。そして今も尚、元彼女は歌を続けていました、3人グループで。

志村けんさんが結婚を考えていたなんて知らなかったと、元彼女は驚いていましたが嬉しそうでしたね。志村けんさんは、別れた原因を覚えていなかったのですが、もと彼女はしっかりと覚えていましたね。なんと「好きな人が出来たから」と言われたのだとか。

しかし、元彼女はサバサバとしていて「これからも頑張って欲しい!」とエールを贈っていました。

まとめ!

志村けんさんは、2020年12月公開予定の「キネマの神様」で、菅田将暉さんとW主演を務める予定でした。映画出演は21年前に高倉健さんと共演して話題になった「鉄道員(ぽっぽや)」以来。人情喜劇を得意とする山田洋次監督と組み、どんな演技をみせてくれるのか楽しみにしていた方も多いでしょう。

3月20日に入院されて間もなく、出演を辞退されたと言うニュースを見ましたが、3月21日には既に意識がなかったそうですから、関係者の方が「無理だ」と感じて辞退をされたものと思われます。

違和感・・・3月17日に倦怠感を感じていたそうですが、20日に入院されるまでの3日間に、新型コロナが身体を蝕んでいたのですよね、凄い勢いで・・・それを考えると、もし3月17日の内に入院していたら、助かっていたのかな・・・なんて思ってみたり。

20日に入院された時にはかなり重体で、21日には人工呼吸器を装着されているんです。その時には既に、意識がなかったと、亡くなられた後で事務所の方が話されていました。意識は戻ることなくそのまま天国に召されてしまいました。志村けんさんご自身は、新型コロナに感染したことさえ知らないままに。

それにしても早すぎます。感染が確認されてから1週間ですよ、わずか1週間なんです。不調を訴えられた3月17日からでも、わずか2週間足らずだなんて・・・本当に恐ろしいウイルスです!

亡くなられた後も、体内にはコロナウイルスが残っているため、家族の方でさえ顔を見ることが出来ないなんて、切なすぎ!

新型コロナで亡くなられた方のご遺体は、全体を覆う非透過性納体袋に密封することが望ましいとされているそうです。遺体袋に入っているため、棺の窓は堅く閉ざされており、お顔を見ての最期のお別れもできません。

志村けんさんの兄志村知之さんは「顔を見られずに別れなくてはならなくて、つらい」と、涙されていたと言います。もし、自分の家族だったら・・・どんなにか辛くて苦しくて悲しいことか。

志村けんさん、長い間楽しませていただき、ありがとうございました。
これからは、天国の方々に、沢山の笑いを披露して楽しませてあげて。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。

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