石川遼 優勝決めた37ホール目の逆転イーグル !3年振りの優勝に吠えて泣いた遼!

石川遼選手3年ぶりの優勝!
やっと遼くんが戻ってきた!
やっぱり遼くんが勝つと盛り上がるから不思議!
でも、3年は長かったよ・・・本当に!

石川遼選手は、2019年男子日本ゴルフ選手権大会「日本プロ」で見事な逆転優勝!
吠えて!泣いた遼くん・・・3年間の思いが胸に込み上げたのかな、

2019年男子日本ゴルフ選手権大会は、7月4日から、鹿児島県いぶすきゴルフクラブで開幕されることになっていました、しかし、鹿児島県を襲った豪雨のため、初日が潰れてしまったので、翌日の2019年7月5日(金曜日)に開催されたのです。

「日本プロ」は開幕はしたものの、天候次第では中止や短縮競技も考えられていたのです。しかし、主催する日本プロゴルフ協会の倉本昌弘会長は「完結を目指しています!」と力強かった。

倉本昌弘会長は第2ラウンド終了後、7月7日に36ホール実施を発表しました。
プレーオフがあり、実際には37ホールになりましたけれど。

午前6時から、73選手を25組に分けて第3Rを行い、30分の休憩を挟んで、組み替えなしで午後5時35分までに最終Rを行う。万が一終わらなかった場合は、8日の予備日に残りを実施すると言うものでした。

倉本昌弘会長は、選手会長を務めていた1992年に日本プロを制しています。
「石川君が上位に残ってくれて良かった。若い人が体力的にも有利」と話していたそうです。

今回の男子日本ゴルフ選手権大会は72ホール行われ、1日36ホール・・・極限の戦いは久々に見ごたえがありました。最後まで優勝の行方が分からず・・・プレーオフで、遼くんのイーグルパットがカップに吸い込まれるのを見届け\(^o^)/。

過去にも、同じような経過をたどった試合がありました。
今から12年前・・・2007年5月に開催されたマンシングウェアKSBカップ。
強風のため初日が潰れてしまい、今回と同じ状況になり、最終日に36ホールを戦った試合。

それこそが、15才8か月の高校生だった石川遼くんが、初参戦したプロの試合で、ミラクルな初優勝を飾った試合だったのです。

マンシングウェアKSBカップで、最終日36ホールの戦いが実施されたらこそ、石川遼くんが、男子ゴルフ界にすい星のごとく現れ、低迷していた男子ゴルフ界の救世主になったのです。72ホールの戦いがなければ「ハニカミ王子」の誕生はなかったかも知れません。

高校1年生になってまだ1か月・・・石川遼くんは15才8か月の、女の子のようなカワ(・∀・)イイ!!少年でした。誰もが遼くんに魅せられてしまいました。

解説者の羽川豊プロが「男子ゴルフ界に救世主が現れたかも知れません!」興奮を抑え切れずに絶叫されたことを、昨日のことのように覚えています。

インタビュー席で、涙をポロポロこぼしながら、バッグを担いでくれたキャディーさんを呼んで、お礼を述べた遼くんは、本当に初々しくてカワ(・∀・)イイ!!少年でしたよ。

鮮烈なインパクトを与えプロ入りした石川遼選手は、落ちかけていた男子ゴルフ人気を取り戻し、試合会場には、石川遼選手目当てのギャラリーが溢れかえり、歩くのが大変なくらいでした。

石川遼選手は、日本全国に「ハニカミ王子」旋風を巻き起こし、2013年に渡米するまで、日本全国を席巻。ゴルフを知らない子供から大人までが「遼くん!」ファンだったのです。

ゴルフだけでなく、周りの方々に気を配ることが出来、トーク力も抜群の遼くんに、多くのお母様方は「遼くんのような子供に育てたい!」「どうすれば、遼くんのように育てられるの?」と。

光陰は矢のごとく・・・あれから早くも12年が過ぎてしまったのですね。
そして、あの日と同じく1日36ホールの戦いを制し、雄たけびを上げる石川遼選手の姿がありました。

やはりプのロゴルフは4日間72ホール戦う・・・それが本当の姿じゃないのかな。短縮されてしまうと興味が半減してしまうし、遼くんのようなゴルファーも出てこない。

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石川遼イーグル締めの逆転優勝!37ホール目のイーグルにファンどよめき大歓声!

第三ラウンドが終了した時、石川遼選手とトップの差は7打に開いていました。スタートした時は首位タイだったのに、4番ボギー、5番6番で連続でダブルボギー・・・

更にバックナインに入り2連続ボギー・・・スコアは、通算5アンダーに迄落ちてしまった石川遼選手。その時目に入ってきたのがスコアボードだったそうです。

「見たくないのに見えてしまい、首位とは7打差あり苦痛に感じた」と。ところが、そこから3連続バーディを取り、首位との差は何とか4打差迄縮まった。

夕方の5時過ぎ・・・16番終了時点で、トップのハン・ジュンゴン選手は14アンダーで、遼くんは12アンダーでした。

もし・・・18番パー5で、遼くんがイーグルで、ハン・ジュンゴン選手がパーならプレーオフだけど。ハン・ジュンゴン選手がバーディーなら万事休す・・・なんて思いながら見ていたら、何とハン・ジュンゴン選手が17番でダブルボギー!並んじゃったんです、遼くんに!

17番パー3で、ハン・ジュンゴン選手の打ったティーショットは、グリーンに乗りながら傾斜で池に落ちてしまい痛恨のダブルボギーで、石川遼選手と並んでしまったのです。

18番はお互いにバーディだったので、プレーオフにもつれ込みました。

プレーオフで、先に打った石川遼選手のティーショットは、1度OBゾーンに飛んだように見えたましたが「ゴツ!」と何かに当たったような音がして、ボールがフェアウェイに戻って来た。「ツキがある!」って思いましたね。

後でわかったのですが、カート道に当たり跳ね返ってフェアウェイに戻ったのですね。でも、あのボールがフェアウェイに戻ったお陰で、イーグルチャンスにつけられたんですから。

石川遼選手のボールは2オンして、カップまでは4メートルくらい。
ハン・ジュンゴン選手も2オンですが距離は残っています。
しかし上手く寄せて、バーディが取れる距離まで寄せました。

石川遼選手が、4メートルのイーグルパットを決めた瞬間に優勝は決まります!

ギャラリーが息をひそめて見守る中、石川遼選手のボールはスルスルとカップに吸い込まれ、「わあ!」と、地鳴りのようなどよめきが起き、遼くんは両手を高々と上げて雄たけびを上げました!
吠えました!

誰かの記事に「やはり石川遼は持っている。彼が活躍しなければ男子ゴルフ界は盛り上がらない!」と記されていましたが、わたしも同じことを感じています。

石川遼選手は「自信をつけるのは簡単ではないが、自信を失うのはあっという間。だから練習をするしかなかった。今年までしかシード権がなくて、生涯獲得賞金の出場資格まで考えた自分がいた」と語っています。

「信じられません。落ちるところまで落ちて、優勝は不可能だと思っていた」と、激闘を繰り広げた36ホールを・・・いや、37ホールを振り返っていました。

石川遼と松山英樹が五輪に出れば最高!遼の最小ストローク58逆転優勝は今も輝く!

「別に何も思わないですよ。彼は実力がないわけじゃない!」
松山英樹選手からは、そんな言葉が返ってきました。
石川遼選手の復活優勝について聞かれた時のことです。

松山英樹選手にとって、石川遼選手が優勝したことは驚きでも何でもなく『実力があるんだから優勝して当たり前、何で驚くの?』と言いたかったのでしょうね。

口に出すことはなくても、長いスランプに落ち込んでいた石川遼選手の、1日も早い復活を待ち望んでいたのは、松山英樹選手かも知れません。PGAツアーに戻る日を待っている筈。

石川遼選手がアメリカPGAツアーにいた時は、同じフロリダに住居を持ち、お互いの家を行き来していた松山英樹選手・・・2人はライバルでもあり、同級生でもあり、気持ちは一番よくわかる間柄。

2016年、『ISPS HANDA ゴルフワールドカップ』で、パートナー指名権を持っていた松山英樹選手は、腰を痛めて休養中の石川遼選手にメッセージを送りました。組むのは「遼しかいない!」と決めていたから。

「アメリカは前回より強い。地元・オーストラリアも強い。その中で優勝だけ目指してやっていこう」
そんな松山英樹選手の強い思いに、「英樹が持っているW杯へのモチベーションの高さを感じた」ことと、「目標を叶えるためには『遼しかいない!』と言われてマジかよ!」と思ったそうです。もちろん即了承!

「遼、頑張ってくれよ。あと3か月で仕上げてくれ!」と言う、松山英樹選手からの言葉は凄く重いもので、大事な3か月になるなと感じていたそうです。

「もっと頑張れって言われているような気がして、気合を入れ直した石川遼選手。
『ISPS HANDA ゴルフワールドカップ』は6位に終わったのですが、息の合ったプレーを魅せてくれた松山英樹選手と石川遼選手は、凄く楽しかったと笑顔でした。

「遼となら取れると思っていた」と話していた松山英樹選手の言葉が印象的でした。遼くんの実力を知っていたからでしょうね。

石川遼選手は15才8か月で、2007年にマンシングウェアKSBカップで初優勝してから、何年もの間、燦然と輝いていました。2008年1月にプロ転向を表明すると、次々優勝を重ね、18才で史上最年少の賞金王に輝くなど、数々の栄光を積み重ねてきました。

今から9年前の2010年5月2日、時はまさにゴールデンウィーク真っ只中。和合コースで開催された「中日クラウンズ」最終日。天候に恵まれ、訪れた15,904人もの大ギャラリー。

「中日クラウンズ」最終日のスタート時点では、7アンダーのトップとは6打差。

誰もが、6打差を縮めての逆転優勝は難しいと予想していましたが、石川遼選手は「最初の4ホールを2アンダーでいければ」と、諦めていなかったのです。

スタートホールのバーディはミラクルの序曲に過ぎませんでした。
「バーディ」「バーディ」「パー」「バーディ」「バーディ」「バーディ」「バーディ」「パー」「バーディ」!何と、前半の9ホールで7個のバーディを並べて魅せました。

更に後半でも、「バーディ」「バーディ」「パー」「パー」「バーディ」「バーディ」「バーディ」「パー「「パー」と、5個のバーディを積み重ね、12バーディでノーボギー。スコアは最小の58でした。誰もが驚く見事な逆転優勝!

この記録58ストロークは、世界6大ツアー(米、欧、豪、亜、南ア、日)での、18ホール世界最少ストローク新記録となりギネスに認定されています。

石川遼選手と同組でプレーした選手は、「途中からギャラリーになっていた!」と振り返っていました。「もう、あきれて、笑うしかなかった」とも話していましたね。

その頃の石川選手には多分・・・怖いものはなかったでしょう。
ゴルフはその怖さを知ってからが難しい。石川遼選手が米国PGAツアーに挑戦して知った事実・・・

周りは自分よりも遥かに高いレベルのプレーヤーばかり・・・そこで自信を喪失、腰痛を患らい怪我の怖さも知るなどして帰国。様々な体験を通して3年間苦悩!しかし日本プロ選手権で復活の勝利。
この1勝は、過去の14勝よりも遥かに大きく価値があると思います!

優勝インタビューの中で、この最終ラウンドを挑戦者として戦ったと語っていました。チャンピオン石川遼ではなく、チャレンジャー石川遼としての、初めての勝利だったと言えるかもしれません。

松山英樹選手と石川遼選手に、2020年東京五輪の、日本代表ゴルファーになって欲しいと願っているのは、わたしだけではないはず。多くのファンは、この二人なら最高に盛り上がること間違いなしだと思うでしょう。

そのためには、日本ツアーの中で複数回の勝利を挙げる必要があります。世界ランクを上げるためにね。そして、それはまた、再度PGAツアーに挑戦するためにも一番の近道ですから。

石川遼は男子ゴルフ活性化企画を次々実行!自分には勝つノルマも課す!

2013に渡米した石川遼選手は頑張りましたが、思うような成績を残せずにいました。1年遅れて、アメリカPGAツアーにやってきた松山英樹選手の活躍を祝福しながらも、自分自身に歯がゆさを感じていたであろう・・・ことは、想像に難くありません。

さらに腰を痛めてから半年近く休養した後は、シード権を失い日本に戻る選択をしました。米下部ツアーへの参戦資格はありましたが、日本ツアーの人気復活を考えて日本を選択。

選手会長を引受けた石川遼選手は、次々と自ら企画を出し、ヒーローインタビュー、ゴルフ版地方巡業とも言えるフューチャーゴルフツアーなど・・・発案したことを確実に実行に移しました。

ある記者の方は「プロ野球選手とプロゴルファーの取材対応はどう違います?教えてください」と言われたことがあって、そこまでゴルフツアーのことを考えているのかと驚いたそうです。

今も尚、石川遼選手の人気は一番で、この9年間(アメリカにいた時も含めて)ずっと、ゴルファーの人気投票でトップだと言います。

石川遼選手は、自分にノルマを課していたらしいのです。
「勝つこと」でした。石川遼選手が勝てば、国内ツアーが盛り上がるのはわかっていましたから。

2019年7月7日、今回ついに日本3大メジャー大会の一つ、男子日本ゴルフ選手権大会でイーグル締めの逆転優勝!メジャー大会の優勝で5年間のシード権奪取。

石川遼選手の優勝インタビューを要約すると・・・下記のような感じ。

「大会が開催されるからには、自分が勝って“大会を開催してよかった”“盛り上がったね”と皆さんに思ってもらえるように頑張りたかった」

「3年間は本当に長かったなと思う。10代の頃から見れば身体も随分変わったのに、身体の変化を自覚していなかった・・・というか、傲慢さや甘さがあった」

「今年になって、初めて棄権をしたことで凄くショックを受けた。そこからはまだ2カ月ぐらいしか経ってないけど、いいトレーニングを積めてここに立つことが出来て、日本プロで勝てた!」

「諦めないで挑戦者の気持ちで一打一打やっていけば自分でもできる、本当にいい経験になりました」

インタビューで話した言葉には、3年間の思いが色々詰まったものでした。言葉を選ぶように、ゆっくりと語りましたが、「挑戦者として戦った」と言うフレーズが何度も出てきました。

「自分がここに立っているのが信じられない、夢なのかなと思うくらい、すごく遠く感じていた部分でもありました。次回以降のツアーで応援に応えられるようにしたいです」

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まとめ

アドレスをクリックしてみて。15才8か月の遼くんの記事が見られます。 https://is.gd/KBEqtm

2007年マンシングウェアKSBカップを見ていた方の多くは、日本オープン36ホーの戦いを、まるで再現ドラマ・・・のように重ね合わせていたかも知れません。

岡山県の東児が丘マリンヒルズGCで開催された、2007年マンシングウェアKSBカップは、強風のために第1ラウンドが中止なり、最終日は、41人で決勝ラウンドの36ホール戦うことが決まり、実施されました。

15才8か月、高校1年生になったばかりの石川遼くんはアマチュア選手で、プロのレギュラーツアーに出たのはこの試合がは初めてだったのです。

試合が進むと、突然スコアボードの上位に、マジックペンで書かれた石川遼の名前・・・が。
「誰だ?」「誰なんだ?」と言いつつ、ギャラリーは石川遼くんがプレーする組にドンドン集まってきて・・・名前も知られていない少年石川遼は、溢れるほどのギャラリーを従えて歩いていたのです。

最初、石川遼くんの名前はスコアボードに書かれてはいませんでした。付き添いの先生が「ぎりぎりまで、スコアボードに名前を載せないで」とお願いされていたように記憶しているのですが・・・

だからいきなり上位に書かれた石川遼くんの名前をみて、多くのギャラリーは「えっ!」と言う感じだったでしょうか。ホールが進むにつれて、遼くんの周りにはギャラリーが溢れていました。

この日、遼くんと同組でプレーしたのが、久保谷健一プロと 立山光弘プロでした。
只々驚いたそうです。「可愛い、爽やか、素直、カッコいい」など、遼くんのイメージを語っていた立山光弘プロですが、「半端じゃない。ゴルフ界に救世主現るかな」と驚嘆していたそうです。

解説者の羽川豊プロが「男子ゴルフ界に救世主が現れたかも知れません!」興奮を抑え切れずに絶叫されましたが、同組でプレーした立山光弘プロも同じことを感じていたのですね。

2019年7月7日、日本プロで逆転優勝した石川遼選手はこんな風に話しています。
「富士山より高い山に登りたい。エベレストに登ってやると思うことが大事。これから、8000メートル以上を登らないといけない。日本代表もつかみにいく」と。

残りの試合、勝ちまくって欲しいなと思っています。
今年12月で選手会長の任期も終わるし、しばらくは試合に没頭して欲しいな。

どん底まで落ちて、這い上がってきた石川遼選手は強いと思います。メンタルも磨かれてきたと思うし、まずは勝ち進み、松山英樹選手と東京五輪に出場できるように、死に物狂いで頑張って欲しい!

その後は再び米ツアーでプレーだよ!

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