あっという間に旅立ってしまわれましたね・・・市原悦子さん。
2019年1月12日午後1時31分、心不全のため東京都内の病院で死去されました。

12月25日まで仕事をされていたそうですから、本当に急死だったのですね。
告別式は、118日金曜日の午前11時から、東京都港区の青山葬儀所で行われるそうです。

昨年は常田富士夫さんと樹木希林さん、そして新年が過ぎたばかりの今届いたのが市原悦子さんの旅立ちの報せ!存在感のある名女優二人が相次いで、この世に「さよなら」を告げ、姿も見られず声も聴けない、遥かに遠い世界へと旅だって行かれました。

市原悦子さんの「家政婦は見た」は、1983年から2008年まで25年間に、テレビ朝日系「土曜ワイド劇場」で26回放送されました。1年に1回のペースですね。

そして1997年には連続ドラマとして11回放送された「家政婦は見た」は人気ドラマでしたから、相当数の方がご覧になっていたと思います。市原悦子さんは、演技だと感じさせない自然体の演技で、「本当の家政婦さんが出演してるんじゃないの?」と思えるほどでしたね。

ごく身近にいる方の、ごく当たり前の日常を覗いているような感覚でしたね。人間の心に潜む「覗き見」は、誰にでもあるのかなとも思えるし・・・だから怖い。だから興味がわく。

「覗かれたら怖い」と言う、覗かれる側の立場になって考えると、「ぞっ」とする恐ろしさもありますよね。でも、市原悦子さんの演じる「覗き見する家政婦」があまりにも自然体で、視聴者はぐんぐん引き寄せられたのかも知れませんね。

記録によりますと、最高視聴率は2作目で1984年だったそうですが、30.9%だったそうです。

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また、「まんが日本昔ばなし」で20年間共演された常田富士夫さんも、昨年亡くなられていました。今頃は、わたしたちの知らない遠い世界で再会され、「まんが日本昔ばなし」を始められたかも知れません。樹木希林さんにも再会されて、ゆったりと会話を楽しんでいらっしゃるのじゃないかしら・・・

とまあ、勝手な想像をふくらませているのですけれど、2014年に亡くなられている舞台演出家だった旦那様、塩見哲さんの元に辿り着けたかな・・・そんなことも気になっているのです。

「馬鹿みたい」と思いながらもやはり気になってしまうのです。画面を通してとはいえ、あまりにも長く見続けていた方ですからね。身近にいた方のような気がして・・・

市原悦子さんを知らない方は少ないと思うのですが、追悼の思いを込めて、芸能界に入られたきっかけや旦那様のことなど、振り返ってみましょう。

きっかけは 演技は楽しくて面白い!家政婦は見たや漫画昔ばなしとの出会い!

子供のころはおてんば娘で木登りなどが得意でした。

市原悦子さんは、中学時代も高校時代も演劇部に籍をおいていましたが、高校生になると演劇が面白くて仕方がなっかったそうです。「とにかく演劇をやっていると楽しかった!演劇はわたしに合っている、向いていると思った」と、インタビューで話されていました。

高校を卒業した時、銀行に就職が決まっていた市原悦子さんですが、銀行を蹴って俳優座養成所に入っています。「家族に反対されなったのですか?」との質問に、「わたしは文句を言わせる隙を与えませんでした」と、笑いながら答え、さらに「わたしは悪い子供だったの」とも。

女優になったきっかけは、高校時代の演劇コンクールで演技賞を受賞してから。演じることの楽しさや面白さと、自分に向いていると思ったから。当時から「演技を一生の仕事に」と決めていました。だから、銀行を蹴ってまで俳優座養成所を選んだのです。

高い倍率を誇り、超難関と言われていた俳優座演劇研究所に入った市原悦子さんは、徹底的にしごかれたそうですよ3年間。稽古に明け暮れ、多くの舞台を経験し、演技の基礎を磨きあげました。

名前:市原 悦子(いちはら・えつこ)。
本名:塩見悦子(しおみ・えつこ)。
生年月日:1936(昭11)1月24日生まれ。
出身地:千葉県。
身長:160センチ。
体重:53キロ。
血液型:A型。
学歴:千葉県立千葉高校。早稲田大学第二文学部演劇専科。俳優座養成所。
所属:ワンダーフロー。

俳優養成所を経て1957年に俳優座へ入団。入団した年に「りこうなお嫁さん」でデビュー。

1959年に「千鳥」で芸術祭賞奨励賞、1964年に「ハムレット」でゴールデンアロー賞新人賞を受賞。俳優座では早くからその才能を開花させた市原悦子さんですが、1971年に原田芳雄さん、中村敦夫さんなどと共に退団しています。

市原悦子さんは1971年に俳優座を退団すると、翌1972年に番衆プロを設立しました。
1975年には常田富士男さんと2人で、登場人物の声を演じ分ける「まんが日本昔ばなし」がスタートしています。その常田富士男さんが2018年に亡くなられ、「強いショック」を感じていた様子も伝えられていました。

また、1989年、今村昌平監督がメガホンを取られた映画「黒い雨」では、日本アカデミー賞最優秀助演女優賞に輝いています。抜群の演技力は常に高く評価されていて、岩崎加根子さん、渡辺美佐子さんと共に「俳優座が生んだ三大新劇女優」とも言われていました。

1983年から、代表作となった「家政婦は見た!」が始まったのですが、「市原悦子の家政婦か、家政婦の市原悦子か」と言われるほどの当たり役となって、燦然と輝く足跡を残しています。

市原悦子さんは「女優は家政婦さんと同じく自分だけが頼りの仕事。大好きなシリーズです」と話されていたようですね。一緒に仕事をされていた方の話では、「監督のOKが出ても、自分が納得できるまで演技にこだわっていました」と。

「ただ、それによって現場の空気がピリピリするようなことは全くなくて、市原悦子さんがいるところはいつも穏やかでした」と、仕事仲間が話しています。

1961年に舞台演出家の塩見哲さんと結婚されましたが、2度の流産を経験されています。「泣きました。悲しくて。多産の家系で産めないなんて思わず。仕事ばかりしておなかを大事にしなかったの。ごう慢さにバチが当たったのよ」と語っていた市原悦子さん。

そのため子供には恵まれませんでした。辛い思いの市原悦子さんでしたが「子供のいない人生だってあるよ」と言う、夫塩見哲さんの言葉に救われたそうです。ふたりはおしどり夫婦と言われていました。

塩見哲さんとの馴れ初めは、早稲田大学時代に所属していた俳優座養成所で出会っているのです。塩見哲氏は「温厚で優しい」として知られていた方。1961年に結婚。2014年3月に「肺がん」が見つかり、手術したのですが、術後に肺炎を併発し2014年4月に亡くなられています。

夫塩見哲さんの死はショックが大きかったのでしょうね、このあとしばらくは、元気がなかったようだとも伝えられていました。

そして昨年(1918年)7月に常田さんが亡くなると「かなりショックを受けていた」と、関係者の方が話されていたそうですが、20年間も「まんが日本昔ばなし」を二人で頑張ったのですから、家族も同然の気持ちがあったでしょう。

20年がどれだけ長いのか・・・生まれた赤ちゃんが、大学2年生に育つまでが20年ですよ、長~いです。そして「まんが日本昔はなし」も「家政婦は見た」に次ぐ長寿番組です。多くの方の支持がなければ成り立ちません。如何に多くの方に愛され共感を呼んでいたか・・・と言うことですよね。

心に響く演技 浅利慶太 新劇界最高の女優と絶賛!意外 スポーツ万能だった!

おっとりした感じに見える市原悦子さんですけれど、実は、抜群の運動神経を誇っていたことを、ご存知だったでしょうか?テニスやボクシング通でスポーツ万能だったそうですよ。

「スポーツはドラマと同じ。テニスやマラソは表情や動きから目が離せない」と話し、金メダルを取る活躍を魅せた高橋尚子さんを夢中でみていた市原悦子さん。

市原悦子さんが俳優座養成所にいた頃の話なのですが、養成所の体操担当だった先生がほれ込むほど凄い運動神経だったと言うのです。先生に「3年でオリンピックの選手にしてみせる」と言わしめたのです。

そのせいなのか、養成所で行う演技の中で、椅子の背中を飛び越えて座れと指示されたことがあったそうです。市原悦子さんは「どうしたら上手く飛び越えられるか考えたりして、楽しかった!」と、インタビューで話されているのを聞いたことがあります。

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子供の頃からお転婆で、木登りなんてお手の物だったそうですから。そう言えばわたしも木登りしてましたね。高いところから飛び降りるのが好きだったし。あっ御免なさい、脱線しました。

2018年に他界された演出家の浅利慶太氏に「戦後の新劇界が生んだ最高の女優」と絶賛された市原悦子さん。「覗き見」する家政婦役をリアルでな演技力で25年間。そして「まんが日本昔ばなし」では、人物に応じた声やしゃべりを駆使して20年間。おっとりと優しく語りかける声に誰もが魅了されていました。

麻雀好きで知られていた市原悦子さんは、お酒を飲みながら俳優仲間と卓を囲むのが大好きだったそうです。旅行や散歩なども好きでしたが、特に麻雀は「女優をやっているよりも面白い」と言うほどだったとか。

しかし、やはり演じることが何よりも大好きだった市原悦子さん。稽古が辛かったり、女優を辞めたいと思ったことはないのかと聞かれて、即座に答えています。「ないですよ!他には何も出来ないから。違う仕事をやるなんて何の意味があるの」と。

ある時、作家の安部公房氏は市原悦子さんのことを、「彼女なら『こんにちは』の一言も、おそらく百通り以上の使い分けをしてみせるだろう」と話していました。

また、演出家の浅利慶太さんからは「戦後新劇が生んだ最高の女優」と絶賛された市原悦子さん。生まれ持った「天性の勘」、それに胡坐(あぐら)をかかない芝居への向き合い方・・・それが市原悦子さんを「最高の女優」へと導いたのでしょう。

アニメ「まんが日本昔ばなし」を振り返り、常田富士男さんと二人きりの語りは、温かさが感じられるゆったりとしゃべりでしたが「世の中の大きな流れから少し外れた人たちに、共感の焦点を合わせている。社会のスピードは速くなっていったけれど、2人とも動じなかった」と話されていました。

常田富士夫さんが亡くなられた時には「先に向こうに行ってしまわれましたが、あちらでお会いしたらまた一緒に昔話の語りをやりましょうね」と、常田さんに語り掛けていた市原悦子さん。きっとお二人の周りには大勢の人たちが詰めかけて、「日本昔ばなし」を聞き入っていることでしょう。

火曜サスペンスを彩り朗読にも力を注ぐ

ギャラクシー賞など放送関係のいくつもの賞を受賞した市原悦子さん。
映画にも「燃えつきた地図」「青春の殺人者」「八つ墓村」など多数出演していますが、1990年には「黒い雨」の演技で日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞。

テレビでは「弁護士高見沢響子」「おばさんデカ 桜乙女の事件帖」などの2時間ドラマの主役のほか、「火曜サスペンス劇場」などの常連と言えるでしょう。

おっとりとした表情でゆったりしゃべる市原悦子さんは、数々のドラマをこなし、近くの住人のような雰囲気と、ふわりと近づき、いつの間にか視聴者の心に飛び込んいる。またCMやナレーションの仕事も多かった。

そんな市原悦子さんの著書に「ひとりごと」と言うのがあります。その中でインパクトのある思い出について語られているのですが、「えっ!」て思いました。

俳優養成所時代のことですが、その頃の大スターで二枚目の森雅之さんに声をかけられたと言うのです。そして「キミ、どこの出身」「千葉です」「千葉の顔だね」と言われて、崩れ落ちるようなショックを受けたことが書かれていました。

森雅之さんについて詳しくは知らないので、画像でさがしてみました。
下記画像は右記アドレスより引用 ⇒ https://is.gd/EiYYze

グサッと刺さったのでしょう・・・森雅之さんの言葉が。でも市原悦子さんはそれをバネにして、「心に残る演技」ができる「いい役者」を目指したとも記されています。

市原悦子さんは「朗読」には特に力を入れ、30年以上続けられました。

野坂昭如さんの『戦争童話集』や、知的障害がある主人公と村人との戦争中の交流を描いた森はなさんの「じろはったん」など、一人芝居のような迫力で聴衆を圧倒したと言われています。

市原悦子さんの朗読は、地方公演でも1500人の会場を満席にするほどの人気だったようです。
「私の朗読は、死とか戦争とか暗い話が多いといわれるけれど、私自身の現在は、戦争を抜きにしては語れない」とも述べていらっしゃいます。

2011年、福島第一原発事故に関連して「原発ゼロをめざす7.2緊急行動」を呼びかけ、2014年には集団的自衛権に関連した朝日新聞のインタビューに登場すると、「『自衛』とか『戦争の抑止力』とか信じられない」と、戦中派としての「非戦」の思いを語っていました。

まとめ

市原悦子さんは16年11月に手足のしびれなどを訴え、自己免疫性脊髄炎と診断され都内の病院に入院しましたが、それ以降は、入退院を繰り返していて、芸能活動もセーブしていたそうです。
♢自己免疫性脊髄炎:自己免疫系が自身の神経を異物と勘違いし、攻撃してしまうことから起こる脊髄炎。

昨年2018年12月初めに体調不良を訴えて、検査を受けたところ、盲腸と診断されました。その時に、うみが出るなどの症状があったそうですが、投薬治療などで回復し、12月30日に退院して自宅に戻っていました。

2018年の大晦日と正月は自宅で過ごしたのですが、5日の夜中に再び苦しくなり別の病院に入院したと言います。2019年1月7日までは事務所社長とも会話をしていました。しかし徐々に反応もなくなって意識が混濁していったそうです。そして1月12日の昼すぎに親族、友人らにみとられて天国へ旅立たれました。

抜群の演技力で一つの時代を築いた偉大な名女優市原悦子さん。今ごろ、樹木希林さんや常田富士夫さんを交え、最愛の夫塩見哲さんと一緒に下界を眺め、「さわいでるわね」なんて、笑っていらっしゃるかも知れません。
姿も見えず声も聞こえない遥かな世界に旅立たれましたが、演じることが大好きな市原悦子さんですもの、そちらでも、劇団を立ち上げ、活躍して下さいね。

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