歴史再現ドラマ 坂本龍馬暗殺の詳細!龍馬は警戒心が薄かった?!

歴史再現ドラマ「坂本龍馬暗殺」、面白かったと思います。

歴史に詳しくなくても内容が理解できるようなドラマだったし、興味をもつ方が増えたかも知れません。でも、歴史に詳しい方は、熟知されている内容だったので物足りない気がされたのでしょうね。

ただ、坂本龍馬の傷の状態について、詳細に記した記事はあまりなかったように思います。この再現ドラマを見たことで、生死にかかわる重篤な状態で逃げていたことが手に取るようにわかり、ショックを受けた方がいるかもしれません。

再現ドラマは、手の甲を軽く切られたように見えた龍馬の傷が、時間の経過と共に悪化していく状態を目で捉えることが出来たため、実は命に係わる深い傷を負っていた・・・とわかる様に再現されていました。

ふと思ったのですが、もし寺田屋の騒動で坂本龍馬が命を落としていたら、大政奉還はなかったでしょうし、世の流れも、今とは全く違ったものになっていたかも知れません。

また、坂本龍馬は寺田屋で襲撃された時、二つの過ちを犯していました。それがもとで、近江屋での暗殺事件がおきたのではないか・・・と言われています。

近江屋で暗殺されたことは周知の事実でしたが、坂本龍馬暗殺の詳細が描かれた歴史再現ドラマを見て、不思議に感じたことがありました。それは・・・坂本龍馬自身に警戒心がまるでなかったように見えたこと。

暗殺される1年9か月前には、寺田屋で襲われ「九死に一生を得た」ことさえも、坂本龍馬の脳裏から消え去っていたのでしょうか。同道する仲間は危機感をあらわにしていたのに、他人事のような行動をしていたのです。

大切な密談をしている時でも、大声でしゃべる龍馬に、仲間が「しっ!」と唇に指を立てるほど。龍馬自身は「外に聞こえる」「話が漏れる」ことなど考えてもいないように思えました。

先の先まで読める坂本龍馬が、自分の足元が見えていなかった。歴史再現ドラマを見て、そんな気がしたのです。

龍馬は先見の明があり、先のことはよく見えるのに、自分の周囲には無頓着だと言う欠点があったのではないか・・・そんな気がしています。北辰一刀流で免許皆伝の龍馬ですが、忍び寄る敵の殺気など、気配を何も感じていなかったのでしょうか・・・

暗殺組は、殺気を消すことが出来るほどの使い手揃いだった・・・とも考えられますね。

龍馬を暗殺したのは、見廻り隊だと言うのが一番有力な説ですが、当然、精鋭部隊が選抜されていたことは確かでしょう。薩摩藩の応援が来ないようにする為、外部に漏れないよう、迅速に暗殺しなければならなかったのですから。

寺田屋で、二つの過ちを犯していなければ、あるいは、近江屋で暗殺されることはなかったのでしょうか・・・坂本龍馬が犯した過ちとはいったい何だったのか・・・あなたと一緒に、寺田屋での暗殺未遂事件から辿ってみましょう。

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襲撃された寺田屋で龍馬が犯した過ち!一命取り止め薩摩に新婚旅行?

1866年1月23日深夜。伏見奉行・林肥後守忠交は、坂本龍馬が寺田屋に宿泊していることを突き止め、捕縛しようと捕り方を送り出していました。

京都で薩長同盟の仲介をした坂本龍馬は、薩摩藩士を名乗り、長州の三吉慎蔵らと共に寺田屋に宿泊していました。深夜3時頃、伏見奉行の命を受けた捕り方30人ほどが寺田屋をじわじわと、取り囲みつつありました。

この異変にいち早く気付いたのは入浴中だった龍馬の妻・お龍でした。お龍は濡れた体に、袷一枚を羽織るとすぐさま裏階段を2階へと駆け上がり、龍馬たちに危機を知らせています。

この時代で真夜中の3時頃に入浴?と不思議な気もしますよね。今なら深夜3時まで起きている人は沢山いますし、戸建て住宅なら深夜3時の入浴もあるでしょうね。

でも、寺田屋の女主人お登勢の元で働いていたお龍は、全ての人が入浴した後の、終い湯に入っていたと思われます。

女主人お登勢もまだ就寝せず何か仕事をしていましたが、「御用改め」だと言う捕り方たちに、薩摩藩の武士が宿泊していると伝えました、。しかし捕り方は納得せず「中を改める」と踏み込んできました。

龍馬が襲撃された寺田屋の画像は右記アドレスより引用 ⇒ https://is.gd/JBPkVr

坂本龍馬と三吉慎蔵は、奉行所の権限が及ばない薩摩藩士であると主張しましたが、しっかりした情報の元に指示が出されているので、捕り方は人相書きを確認していました。

見破られた坂本龍馬は高杉晋作からもらった拳銃で防戦しますが、この時龍馬は捕り方に、拳銃を持つ手の甲の血管を切られてしまったのです。血管を切られた坂本龍馬の手から血が滴り落ちはじめ、龍馬は苦悶の表情をうかべていました。

坂本龍馬は、右手親指の付け根の肉をそがれ、左手の親指の関節を切り割られ、左手の人差し指の付け根の関節を割られたというのです。これは後に坂本龍馬本人が手紙に書いたことだと言われています。

拳銃が握れなくなった坂本龍馬ですが、何とか両手で拳銃を持ち何発か打ちました。その内の2発が捕り方に当たり死亡。龍馬の過ちの一つ目・・・捕り方を死亡させたことでした。今で言うならば、警官を死なせてしまったと言うことになりますね。

龍馬が犯した二つ目の過ちは、薩長同盟に関わる重要書類を持たずに逃げてしまったこと。咄嗟(とっさ)の出来事とは言え、重要書類のことを忘れてしまう失態を犯していたのです。このふたつの過ちが誰かを激怒させることになり、命を狙われるようになったと思われるのです。

坂本龍馬を守るために常に側にいた三吉慎蔵は、時が経つにつれて出血量が増え、苦悶する龍馬をかばいながら戦い、三吉は槍で応戦しながら隣家の壁を壊して、何とか外に逃れることができました。

三吉慎蔵は、闇夜の中を深手を負った坂本龍馬を支えながら逃げまどい、材木小屋に隠れましたが、龍馬の出血は激しく薩摩屋敷にたどり着くのは至難の業。

坂本龍馬は三吉慎蔵に「一人で薩摩屋敷に行って知らせてくれ」と頼みます。三吉慎蔵は濠川で血の付いた着物をあらい、草ぞうりを拾い、旅人のふりをして歩き出しました。

朝になり、店もいくつか開き始める時間になっていました。三吉慎蔵は薩摩屋敷がどこにあるのかを知りません。商人風の人に、「薩摩藩邸はどこか?」と訪ねました。

三吉慎蔵は息も切れ切れになりながら、やっとのことで薩摩屋敷にたどり着きましたが、三吉慎蔵の顔を知らない薩摩藩士に取り囲まれてしまいました。

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そこへ奥からお龍が走りよってきました。お龍は先回りして薩摩屋敷に駆け込んで、坂本龍馬と三吉慎蔵を待ちわびていたのです。報告を受けた西郷隆盛が軍医を派遣し、薩摩藩邸で治療を受け坂本龍馬は一命をとりとめたのです。

坂本龍馬の出血は激しく、致死量と言われる2000 CCの限界に近かったと思われます。意識朦朧としていて、龍馬自身は何もわからない状態だったかも知れません。三吉慎蔵がいなければ、坂本龍馬はおそらく命を落としていたでしょうね。

このような詳細がわかったのは歴史再現ドラマを見たからです。

再現ドラマでは、刻一刻と危険が迫る坂本龍馬の怪我の状態が、手にとるようにわかり、手から滴り落ちる血液の量がどんどん増えて、血にまみれた衣服や、苦悶に顔をゆがめ身体をねじる龍馬の姿と、必死に支える三吉慎蔵を見届けることが出来たから。

その後、坂本龍馬は伏見の藩邸から二本松の藩邸に移り、再度伏見の藩邸に戻ったのですが、西郷隆盛の勧めもあって大阪から鹿児島へ渡り療養しました。

坂本龍馬は鹿児島に渡る時、妻のお龍を連れて行きましたので、これが「日本で初の新婚旅行」と言われるようになっています。

坂本龍馬を守った三吉慎蔵!龍馬が襲撃された寺田屋女将とは?

三吉慎蔵は長州藩の支藩である、長府藩に生まれ、藩校明倫館で学びましたが、特に槍の技量に優れていました。宝蔵院流槍術では免許皆伝の腕前で、非常に有能な武士であり大変真面目な性格でした。そのため藩主からの信頼も厚かったそうです。

槍の名手三吉慎蔵ですが、寺田屋事件で坂本龍馬と共に闘ってからは、最後まで龍馬に対する信義を貫いた人でした。龍馬死後は、龍馬の妻お龍の面倒を見ています。

三吉慎蔵は無欲で清廉潔白な人柄でした。大正時代まで生きましたが、任務遂行に対する強い志を持ち、主君に対する忠義を貫き遠し、新政府の要職にはほとんど就かなかったそうです。

明治維新後、廃藩置県後は宮内省御用掛として北白川宮家の家扶となり、のちには家令を務めましたが、1890年(明治23年)に辞任。晩年は故郷の長府で暮らし、1901年(明治34年)71歳でなくなりました。


廃藩置県(はいはんちけん):○○藩などを廃止して県を置いた。
家令:執事。
家扶:家令の下で働く職員。

寺田屋の女将お登勢は、大津の丸山町(大津市中央1)にあった宿・升屋を経営していた重助の次女でした。お登勢の生家や家族についての詳細を発見されたのは、歴史研究家のあさくらゆうさんだということです。

伏見の船宿「寺田屋」の6代目寺田屋伊助の妻となったお登勢は、放蕩三昧の伊助が寺田屋の経営を悪化させたので、夫に代わり寺田屋の経営をたてなおしています。放蕩の挙句に35歳で伊助がなくなった後も、女将として頑張っていました。

お登勢は世話好きで、幕府から目をつけられた尊王派の志士達をかくまったり、陰から支えていたと言われています。坂本龍馬もお登勢と懇意にしていたそうですが、お登勢宛に出した坂本龍馬の手紙の内容は、ほとんどが頼み事や泣き言だったとか。

坂本龍馬らが襲撃されてからは、寺田屋も、お登勢自身も幕府から目を付けられ、投獄されそうになったこともあると言います。しかし捕らわれることもなく、お登勢は1877年に48歳の若さで永眠しています。

瞬殺された坂本龍馬!2日間生きてた中岡慎太郎!

近江屋事件は、江戸時代末期の慶応3年11月15日(1867年12月10日)、坂本龍馬と中岡慎太郎、龍馬の従僕であった山田藤吉の3人が京都河原町の近江屋で殺害された事件。

坂本龍馬は薩摩藩の定宿であった寺田屋を定宿としていましたが、江戸幕府に目をつけられ襲撃されてからは、三条河原町近くの材木商鮓屋を京都での拠点にしていました。

その後・・・慶応3年10月頃には醤油商近江屋に移っています。近江屋は土佐藩の御用を務めており、土佐藩志士の基地的な存在でもあったのです。

坂本龍馬が暗殺されるという噂が広まっていて、御陵衛士の伊東甲子太郎と藤堂平助が近江屋を訪れて「新選組と見廻組が狙っている」と告げたと言われています。

薩摩の吉井幸輔が、ここでは用心が悪いから、土佐藩邸に入れないなら薩摩藩邸に入るようにと進言しましたが、坂本龍馬はそれを断り、用心のために山田藤吉を従僕として雇い入れました。

近江屋には誓願寺への逃亡も容易な土蔵があり、いつも坂本龍馬はそこに滞在していたのですが、風邪をひいていたため、11月14日には近江屋の二階に移っていたのです。これが災いしたのでしょうか。

夕刻坂本龍馬は、訪ねてきた中岡慎太郎と酒を酌み交わしながら話しあっていました。その時一階には、坂本龍馬を狙う暗殺組が訪れ、嘘の名前を書いた書付を従僕の山田藤吉に渡します。

下記 龍馬暗殺された近江屋の画像元アドレス ⇒ https://is.gd/JBPkVr

従僕が二階に上がる後から、音もなくすっと中に入り込んだ暗殺組は、二階のふすまの陰に身をひそめました。

暗殺組は、坂本龍馬の返事を聞いた山田藤吉が出てきたところを一気に切りすて、部屋に飛び込むと間髪入れずに、龍馬と中岡慎太郎に襲い掛かかった!

坂本龍馬は抜刀する間もなく瞬殺されたと言われています。中岡慎太郎は瀕死の状態で2日間ほど生きていたそうですが、苦しみながらなくなったのだとか。・・・

実行犯については諸説あるのですが、江戸幕府の組織である京都見廻組によるものという説が最有力です。京都見廻組と言うのは、江戸時代末期に幕臣によって結成された京都の治安維持組織。

「死の予感」があったのでしょうか・・・坂本龍馬は死の直前に信頼できる三吉慎蔵に「万一のときはお龍を君の家に置いてやってくれ」と手紙を出していました。

坂本龍馬が暗殺された後、約束を守った三吉慎蔵はお龍を自宅に引き取り、それから高知の坂本家に無事送り届けています。

坂本龍馬の生い立ち!開国を目指し辿った道!

薩長同盟の周旋と大政奉還の成功という偉業は坂本龍馬抜きにして語ることはできません。新国家体制のために新政府綱領八策を起草するなど、新しい時代のために精力的に活動した坂本龍馬ですが、明治維新という新しい夜明けを見届けることは叶いませんでした。

もし、暗殺されずに明治維新を迎えていたら、どのような活躍をしたのでしょうね。

坂本龍馬は天保6年11月15日(1836年)生まれで、5人兄弟の末っ子。坂本家は下士階級にあたる郷士という身分でしたが、曾祖父の時に本家から多額の財産を分与されて独立していたので、かなり裕福な家庭でした。

幼少期の龍馬は泣き虫で甘えん坊、気弱な子供でしたが、姉の乙女が継母の伊予と共に、武芸や学問を龍馬に教え育てたと言われています。

ペリーの黒船来航時、土佐藩江戸屋敷の臨時守備に付いた龍馬は、異国の脅威を目のあたりにし、ジョン万次郎と親交のある絵師、河田小龍から国際情勢について学び、開国の必要性や海運の重要性を教えられ感銘を受けました。

この頃、井伊直弼が幕府大老に就任し、開国を強行し反対派の弾圧に乗り出しますが、桜田門外の変で暗殺される事件がおきています。

多くの人物との出会いや経験を重ねた坂本龍馬は脱藩してしまいます。そして開国論者の勝海舟を「斬る」と決めて訪ねた坂本龍馬ですが、勝海舟から、世界情勢と海軍の必要性を聴かされ大いに感服を受けその場で弟子入りを志願。

龍馬は勝海舟が幕府の「海軍操練所」設立の認可を受けると準備のために奔走し、1864年(元治元年)、神戸海軍操練所が正式に開設され海軍塾塾頭に就任。

それから、わずか数か月の間に土佐では土佐勤王党の粛清、長州では下関事件が起こり、とうとう八月十八日の政変で長州が御所から追放され政局が一変してしまいます。

池田屋事件、禁門の変、馬関戦争、長州討伐と続き、海軍塾生が加わっていたことで、勝海舟は解任されて江戸召喚を命ぜられました。その時、勝海舟は龍馬や塾生達を西郷隆盛と小松帯刀に託しました。

坂本龍馬と塾生達は、出資は薩摩藩に頼み、航海術を必要とする亀山社中を結成。亀山社中は、私設海軍、貿易、商社などの総合的役割を果たす日本初の株式会社ですね。

坂本龍馬の成し遂げた最初の大仕事が、水と油のような関係にあった薩長両藩の利害一致による和解の周旋。龍馬と中岡慎太郎を中心に薩長間を奔走、慶応2年1月21日(1866年3月7日)薩長同盟を締結させたことでしょう。

京都で開かれた四侯会議は、将軍徳川慶喜、島津久光・伊達宗城・松平春嶽・山内容堂が出席し、後藤象二郎は山内容堂に京都へ呼ばれていました。

大政奉還論を山内容堂に進言するため、坂本龍馬は船の上で、後藤象二郎に政治綱領を提示します。この提示はのちに海援隊士に成文化され、船中八策とされました。

坂本龍馬は後藤象二郎を通じて土佐藩に大政奉還策を献上し、徳川家に政権を返上させるという無血革命を考えていました。こうして慶喜と龍馬らの考えが一致し、土佐藩から建白された大政奉還案は実現に至ったのです。

大政奉還は、江戸時代末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許したこと。

まとめ

坂本龍馬についての記事はあまりにも多く、簡単にまとめることは難しい。

「薩長同盟」を斡旋した坂本龍馬は、「大政奉還」と言う大きな仕事をなしとげました。中心となって活躍した坂本龍馬ですが、新しい国の夜明けを見ることなく、京都の醤油商近江屋で暗殺され、短い生涯を終えてしまいました。

しかし、短い生涯の中でやり遂げたことは、60年、70年と生きても出来ないような「国を変える」と言う、大きな仕事でした。「船中八策」など新政府綱領となる指標を提示し、遥か先の未来を見据えていた坂本龍馬。

ふと思ったのですが、もし寺田屋の騒動で坂本龍馬が命を落としていたら、大政奉還はなかったでしょうし、世の流れも、今とは全く違ったものになっていたかも知れないのです。

また、坂本龍馬は寺田屋で襲撃された時、二つの過ちを犯していました。それがもとで、近江屋での暗殺事件がおきたのではないか・・・と言われています。

たられば・・・ですが、寺田屋で襲われた時に二つのミスを犯していなければ、大政奉還を見届け、新政府でもさらに活躍していたでしょうね。寺田屋で共に戦った三吉慎蔵は明治維新後も生きていましたから。

ただ、冒頭でも記しましたが、坂本龍馬は警戒心がなかったように思え、それが命取りになってしまったとも感じています。

京の街を歩くとき、仲間は、すれ違う人すべてを警戒していたのに、「平気平気」坂本龍馬はそのような感じで、隙だらけでしたから。密談している時も話し声が大きく、そのため居場所を探る相手は楽々と探し出せたでしょう。

明治維新、新しい日本を見届けてもらいたかった・・・

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