ヘレン・ケラーが「私より不幸で偉大な方」と抱きしめた中村久子!3才で両手足失い自立!

わたし、中村久子さんのことを知りませんでした・・・あなたはご存知だったかしら。
三重苦で知られるヘレン・ケラー女史が来日した時、「わたしより不幸な、そして偉大な方」と言って抱きしめたと言われている方・・・それが中村久子さんなのです。

想像を絶するような人生を歩んでこられた中村久子さんのことを、最近まで知らなかったなんて・・・

中村 久子(なかむら ひさこ)さんは、1897年11月25日に岐阜県大野郡高山町(現在は高山市)で生まれました。1968年3月19日、72才で亡くなられていますが、両手・両足を失いながらも、自立した生活を送った女性として知られている方。

わずか3才で両手・両足を失いながら、「手足なくとも生かさるる人生に絶望なし」と語った中村久子さんの言葉の凄さに震え、なぜか涙がポロポロこぼれ胸が詰まるのを感じました。このような方がおいでになられたことを、一人でも多くの方に知っていただきたい・・・そんな気持ちがこみ上げてきました。

72才で亡くなられましたが、その人生は、健常者には想像もつかないようなことだらけ・・・だったに違いありません。健常者の何百倍もの努力を重ね、どんなことにも負けない強靭な精神力で、生き抜いてこられた方だった・・・

中村久子さんが病気のために両手両足を失ったのは、可愛い盛りの3才の時。3才くらいの頃って、見るもの全てに興味を持ち目を輝かせながら、そのあたりをチョロチョロ走り回る・・・丁度そんな頃ですよね。親にとっては目が話せず大変だけど一番かわいい頃。

両手足を失う原因になったのが、2歳の時左足の甲にできた凍傷でした。凍傷は左足の甲だけではなく、左手、右手、右足と移っていき、何日も高熱が続き手足が真黒になり、まるで焼けるような痛みと苦しみが、昼夜途切れることなく幼い体を襲い続けたと言います。

3歳の時、凍傷が元で特発性脱疽となり、手術すべきか否か、親族会議が何度も繰り返されますが決断に至らず。

そんな時でした・・・3才の久子さんの左手首がポロリと崩れ落ちたと言うのです!まるでホラーですよ。左手の手首から先がポロリ・・・と落ちてしまうなんて!

そしてその後、右手は手首から、左足は膝とかかとの中間から、右足はかかとから・・・切断されてしまいました。わずか3才ですよ!!!可哀想なんてレベルを遥かに超えています。辛いですよね・・・涙さえ枯れ果てたかもしれません。

両手両足が切断された苦しみ・・・阿鼻叫喚・・・地獄の苦しみだったに違いありません。
阿鼻叫喚(あびきょうかん)とは、この世のものとも思えぬ地獄のような苦しみ。

想像を絶する苦しみだった筈。でも、見守る両親にさえ本当の痛みや苦しみはわからない!ただ、まだ3才の幼い娘の苦しむ様子を見ながら、針のむしろに座るような心情だったかも・・・

両手両足をうしなった中村久子さんが72才まで、どのようにして生きてこられたのか・・・

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両手両足を失った娘!一度は死を覚悟 愛情込めて厳しく育てた母!

中村久子さんが7才の時、父の榮太郎氏が急性脳膜炎で亡くなリました。そして弟の栄三さんとも生き別れになってしまうのです。久子さんの治療費がかさみ借財を抱え込んだため、久子さんの母は再婚しましたが、久子さんは義父に冷酷に扱われ虐待されるうちに、心が蝕まれ歪み始めたのです。

今で言うストレスからでしょうか・・・9才になった久子さんは失明してしまったのです。両手・両足のない幼い娘の失明を知った母は絶望のあまり、久子さんを背中におぶって暗闇の中を何処までもさまよい続け、ある川の上流に辿りつくと、そこに立ち尽くしてしまいました。

「こわいよ!」と泣き叫ぶ久子さんの声に「はっ」と我に帰ったそうです。生きることの苦しさに負けて「死神」の誘いに身を任せようとした久子さんの母は、思いとどまり、よろよろともと来た道を引き返しました。それからの母は久子さんのために、全ての苦しさ辛さを耐え凌ごうと決意されたようですね。

失明から1年ほどが過ぎた頃でした。幸いにも久子さんは視力を取り戻すことが出来たのです。それから母の厳しいしつけが始まりました。自分が亡き後、娘が自分で生きていかなければならないことを考え、久子さんが自分の力で何でもできるようにしなければ・・・そんな覚悟を決めたと思われます。

母のしつけが始まったのは10才になった頃、丁度この頃でしょうか、弟の栄三さんとも生き別れになってしまいました。詳しいことは何も記されてはいませんので、理由はわかりません。

久子さんは、あまりのしつけの厳しさに「これが本当の親なのか」と思ったこともあるほど厳しかった・・・と。おそらく娘の未来を考え、「心を鬼にしよう」と決めたものと思われますが、生半可な覚悟でできるものではありません。ここで厳しくしなければ娘は生きていけない・・・と鬼気迫る思いがあればこそでしょう。

久子さんが、まず最初に母から指示されたのが、仕立て替えする着物をほどくことからでした。「出来ません」と音を上げれば「できないからといってやめてしまったら、人間は何もできません。やらねばならんという一心になったら、やれるものです。できないのは横着だからです」・・・そんな厳しい言葉が返ってきたそうです。

母の厳しさを恨みながらも久子さんは、何日間もかけて口でハサミを使う方法を覚えたと言います。それは発見でもあり、凄く嬉しかったと語っています。刺繍も編み物も、お部屋の掃除も囲炉裏に火を焚くことも、洗濯も包丁を使うことも、みんな母から厳しく言われて、覚えたものばかりだと話していた久子さん。

しかし、両手両足がない久子さんには簡単にできるはずもなく、一つ一つ覚えるのには、それこそ血のにじむような努力があったでしょう。

ある時、こんな出来事があったそうです。
久子さんが口で縫った人形の着物を、近所の友達にあげたことがありましたが、その子の母は「こんな汚い物!」と川に投げ捨ててしまった・・・と言う。口で縫い、口で糸をしごいて仕上げた人形の着物は、つばだらけだったからでした。

久子さんは語っています「ぬらさぬないようにというのは、悲壮なまでの念願でしたが、ぬれない裁縫ができるまでには、13年間の長い年月がかかりました」・・・と。

中村久子さん自分の意志で26年間 見世物小屋で働く!結婚し子供も!

中村久子さんがもうすぐ20才・・・大人の仲間入りをする少し前に、久子さんは重大な決意をしていました。「手足がなくても生きている以上は、自分で働いて生きていこう」と決めたのです。

そして、見世物小屋に入ることを決めた久子さんは、「だるま娘」として初舞台を踏みました。口と短い腕で裁縫や編み物をしたり、書をしたためてみせました。地味でしたけれど見事な芸は評判を呼んだのです。それから26年間もの間、日本国内は言うに及ばず、朝鮮や台湾にまで巡業に出かけた久子さん。

興行を行うためには、交渉事や荷物の運搬など何かと男手が必要です。久子さんは23歳で結婚して長女が生まれ、喜んだのもつかの間・・・夫が病死してしまいました。その翌年に再婚して次女も生まれましたが、またしても夫が亡くなると言う不運に見舞われてしまうのです。

三度目の結婚相手は女道楽が激しく浪費家。生まれた三女は、わずか10か月でこの世を去りました。しかし久子さんは男運も悪かった・・・ですね。神様は意地悪です・・・健常者でも大変なのに。

もがき苦しむ久子さんが、強く心を揺さぶられた女性がいました。座古愛子(ざこ・あいこ)さんという方です。彼女は16才のときリューマチを患って、寝返りさえ出来ない状態でありながら、神戸女学院の購買部の隅にベッドを置いて働き、人の相談にも乗っていたのです。

時をおかず久子さんは神戸女学院で働く座古愛子を訪ねています。その時の様子を、このように表現・・・「女史とは初対面なのに双方とも言葉はなく、ただ目と目を見交わした刹那、涙はせきを切って流れ出ました」と。

1933年:昭和8年に、9歳下の中村敏雄と再婚しています。
1937年:昭和12年 芸人生活をやめて上京した時。日比谷公会堂でヘレン・ケラーと対面しました。この時に「わたしより不幸な、そして偉大な方」と言ったヘレンケラーが、中村久子さんをしっかりと抱きしめたそうです。

1938年:昭和13年 見世物芸人に復帰しています 。
1942年:昭和17年 芸人生活から永久に離れる 決意をしました。
1948年:昭和23年 ヘレン・ケラーと2度目の会見を果たす。
1950年:昭和25年 高山身障者福祉会発足、初代会長に就任。

まとめ

中村 久子(なかむら ひさこ)さんは、1897年11月25日に岐阜県大野郡高山町(現在は高山市)生まれ。1968年3月19日、72才で亡くなられました。両手・両足を失いながらも、自立した生活を送った女性として知られている方です。

足にできた凍傷が原因で、わずか3才の時に両手・両足を失いながら、「手足なくとも生かさるる人生に絶望なし」と語った中村久子さんの言葉には凄い重みがあるように感じました。このような方がおいでになられたことを、一人でも多くの方に知っていただきたいな・・・と。

中村久子著『こころの手足』(春秋社刊)をさがしましたが、古いので、もう何処にもなく諦めていたら・・・増刷された書籍が届きました。

早速何ページかに目を通しましたが、知らず識らずのうちに涙がこぼれてきて止まりません。よくぞ生き抜いてこられたと感動しながら、何事にも負けない精神力の強さに驚かされ、見習わなければと思う。

中村久子さんのことを知り、もっと頑張らなきゃいけないなと気を取り直しました。
命を全うするまでは、どんな時でも前向きに生きなさい・・・そう教えられたような気がします。

「どうせ駄目なんだから」「やってもできないだろう」と、やる前から諦めてしまうことが多かったのですが、これからは、出来るか出来ないかなんて考えず、とにかく取り組んでみよう・・・と考えるようになりました。

両手・両足を失いながら何年もかけて、何でも自分でできるようになられた中村久子さんの、血の滲むような辛さ、苦しさ、たゆまぬ努力を考えたら・・・何も努力をしないで諦めるなんて恥ずかしいこと。なにか困難にぶつかった時は、中村久子さんのことを思い出し頑張る・・・ぞ。

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