滝沢秀明は貧困から抜け出すため応募!黄金世代を築きジャニーズJrの歴史を換えた!

滝沢秀明さん・・・今や、ジャニーズ事務所の副社長。
しかし、幼い頃の暮らしは貧しく苦しかった・・・

貧しさから抜け出すために何とかしたい・・・そう思って送った一枚の写真が人生をかえました。
13才だった滝沢秀明少年が写真を送ったのがジャニーズ事務所だったのです。

たった一枚の写真で人生が激変した人は他にもいるかも知れませんが、滝沢秀明さんは、あれよあれよと言う間にスターへの階段を駆け登って行ったのです・・・周りの仲間が驚くほどのスピードで!

入所して一週間後に、ジャニーさんと思われる人から電話がありレッスンに呼ばれ、更にその二週間後には、KinKi Kids のバックで踊ることになったと言うのですから凄い!

この頃かも知れません・・・1995年に滝沢秀明さんは事務所の合宿所に入り、相葉雅紀さんや、二宮和也さん、松本潤さんなどと一緒に生活していたこともあったそうですよ。そして、ドラマ『木曜の怪談~怪奇倶楽部』で主演を努めたのが入社してから、わずか半年後だったと言うから驚き!!

このように、滝沢秀明さんが加入してからジャニーズ ジュニアの存在が激変した・・・と言われています。滝沢秀明さんが加入するまでは、ジュニアに与えられた主な役割はバックダンサー・・・だけでしたから。

滝沢秀明さんは単独でコンサートを行ったり、ゴールデンタイムを含め冠番組を、3つも持つなど、大人気のユニットに上り詰めています。

しかし、ここまで上り詰める事ができたのは、困難にぶつかった時も誰に相談することもできない中で、弱音を吐くこともせず、疲労で倒れ点滴をうちながらも死にものぐるいで頑張ってきたからこそ・・・

滝沢秀明さんの血のにじむような頑張りのおかげで、黄金世代と呼ばれている嵐のメンバーや関ジャニのメンバーなどが出てきたそうです。ジャニーズジュニアの黄金世代を築き上げたのは滝沢秀明さんなのですね。

1998年、鈴木保奈美さんと共演した『ニュースの女』で人気になり、1999年には、TBS系ドラマ『魔女の条件』で松嶋菜々子さん演じる高校教師と禁断の恋に落ちる生徒役をW主演で演じ、話題。

2002年9月には今井翼さんとコンビを組みタッキー&翼として歌手デビュー。

2005年にはNHKの大河ドラマ『義経』 の主役・源義経に当時としては最年少で抜擢され、同年5月3日には藤原まつりの「源義経公東下り行列」にも義経役で参加しました。この大河ドラマの演技が評価され第14回橋田賞を受賞。またこの頃、事務所社長のジャニー喜多川氏が「和に特化した舞台を作りたい」と滝沢秀明さんに打診していました。そして2006年から『滝沢演舞城』が開始されています。

2018年、芸能活動を引退する時「中居正広のキンスマスペシャル」に出演しました。その中で滝沢秀明さんは「自分の中で封印していた時代なので。この番組で初めてさらします」と話し、極貧の幼少時代について語リました。覚えていらっしゃる方も多いでしょう。

芸能活動から引退した翌年・・・ジャニー氏の”後継者”として、SixTONESやSnow ManなどJr.の育成、舞台プロデュースに力を注いでいますが、2019年1月にはジャニーズジュニアなどの育成を担うための、株式会社「ジャニーズアイランド」の代表取締役社長に就任。

2019年7月にジャニー喜多川氏が亡くなられ、9月にはジャニーズ事務所の副社長に就任。父のように慕い信頼していたジャニー氏の死を、どのような思いで受け入れたのでしょう・・・

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本物を見抜くジャニー喜多川の目!滝沢秀明はジュニア黄金世代を築く!

父の愛を感じたことはないそうですが、それでも父がいる間の生活は安定していたのでしょうね。生活が激変したのは、幼稚園時代に両親が離婚して父が家から居なくなってからです。

鉛筆や消しゴムすら満足に買えない極貧生活を送っていたのです。食べるものが無く、帰りの遅い母が帰ってくるのを待ちながら、ひとつのお菓子を兄弟で分け合い、それが食事代わりになった日は数え切れないほど・・・

中学生になった頃には「どうやったら子供でも働けるんだろう」と、毎日のように、貧しい暮らしから抜け出せる方法を考えてばかりいた滝沢秀明少年。

そんなある日、13才だった滝沢秀明少年が写真を送ったのがジャニーズ事務所でした。しかしアイドルになるのが目標ではなく、極貧生活から抜け出せるために働くことができれば、どこでも良かったそうです。

滝沢秀明さんが『中居正広のキンスマスペシャル』で語っていましたよね。
書類選考を通過しオーディション当日を迎えましたが、食べる物すらない日があった滝沢秀明少年に、特別な洋服などあるわけもなく、「着ていった洋服は当然ボロボロ・・・だった」って。

そして、オーディションが終わる時に「僕がジャニーです」と目の前に現れたジャニー喜多川氏。「ジャニーですって言われたけど誰だろう?って・・・僕は全然詳しくなかったので」と話す滝沢秀明さんは「隣に翼もいたんですけど、ジャニーさんが名前を聞いていたから、この子受かったんだろうなって・・・」と思ったそうです。

オーディション当日ですから、滝沢秀明さんも今井翼さんもお互いを知らなかったのですが、隣同士にいたのですから不思議ですよね。後になってわかったのですが今井翼さんも、隣りにいたのが滝沢秀明少年で、「目つきが他の人達とは違っていた」と語っていました。

ジャニー喜多川氏の見る目は確か・・・金の卵を見つけたんですよね。オーディション会場で滝沢秀明さんを見た時にひらめきがあったのでしょう。それから一週間後に滝沢秀明さんをレッスンに呼び出しているのですよ。更にその二週間後には、KinKi Kids のバックで踊ることになったのですからね。

滝沢秀明さんは当時を振り返って語っています。アイドルを目指して応募したわけではなく「どこでもよかったんですよね。とにかく何かやらなきゃいけないなと思っていたら最終的にジャニーズ事務所にたどり着いた」・・・と。

滝沢秀明さんが入所した当時は、ジャニーズジュニアは120人位。その中でジャニー喜多川さんから指名されて、滝沢秀明さんがジュニア全体を取りまとめる役割を担うようになったのが16才の時。ジャニー喜多川氏の助手としてオーディションにも立ち会っていたと言うのですから、心底から信頼されていたのですね。

それにしても120人ものジュニア全体を、16才の滝沢秀明さんが取りまとめるのは、容易じゃなかったはず!下は小学五年生くらいの少年から上は22、23才と言う、遥かに年上ジュニアも沢山いたのですから・・・さぞかし大変な苦労をしたことでしょう。

先輩・・・年上のジュニアからは「何で、お前の言うことを聞かなきゃいけないんだ!」と言われたり、同期の場合でも「俺は、何でマイクを持てないんだよ」と言われたりするなど、ジュニア全体の取りまとめは想像を超える難しさがあったようです。しかし、その苦しさを乗り越えたのは「せっかく用意してもらったチャンスを、無くしたくなかったから」だと話しています。

しかし、先輩たちを飛び越えて先頭を走る事になった滝沢秀明さんを、多くの先輩や同期が、滝沢秀明さんばかりが優遇されているように感じて、嫉妬していたとしても不思議ではありません。先輩や同期の嫉妬をひしひしと感じていたのでしょうね。「みんなが敵に見えた時もあった」・・・と。精神的に「かなり、きつかった!」と語っています。

それでもジュニアたちは、今までは先輩のバックについてなんぼだったのに、急に自分たちのコンサートができることになり、目の色をかえ死にものぐるいで食らいついていった・・・そんな感じだったと。

滝沢秀明さん自身は常に中心に立つ人気プレーヤーとして活躍しながら、後輩を育てる役目・・・言わば監督的な役目をしっかりと果たし続けたのです。苦しく辛い立場をおくびにも出すことなく・・・

ジャニーズジュニアの競争は熾烈を極めているそうです。CDデビューできるタレントが選ばれるのは、数年に一度だけなので、ひしめきあうジュニアの中から、CDデビューの枠内に入るのは大変なことらしいですね。

滝沢秀明さんは番組ではMCを努めていたし、コンサートはもちろん歌番組でも常に中心にいました。ジュニアのまとめ役を担っていたため、精神的にも肉体的にも極限だったかも知れませんが、疲労で倒れても、誰にも相談することが出来ず点滴をうちながら頑張り通して、今この地位にいます。

どちらかと言えば滝沢秀明さんは、人前に立つのが苦手でいつも隅っこにいるタイプだったそうですが、本人は「ジャニーズ事務所に入ってやらされた・・・みたいな感じだったかも」と笑いながら当時を振り返って語っていましたね。

しかし、ジャニー喜多川氏の本物を見抜く目は確か!わずか16才の少年に、120人ものジュニアのまとめ役を任せたのはもの凄いことだったと思いますが、何も口を挟まず任せたところも又凄い!

出されたお題を全力で成し遂げる対応力!同じ目線で後輩の相談に乗る!

実は、櫻井翔くんは滝沢秀明さんと同い年で、半年遅れで入所していました。滝沢秀明さんの物凄い活躍ぶりを見ていた櫻井翔くんは「自分が、努力する意味はあるのか・・・」と戦意喪失。その頃は、滝沢秀明さんの底しれぬ苦労や頑張りがどれほど大変だったかなど・・・知りもせず舞台を見ていたと、後になって告白しています。

嵐の櫻井翔くんがデビューしたのは1999年でしたが、その頃のジャニーズは飛ぶ鳥を落とす勢いがあり、滝沢秀明さんはもちろんジャニーズジュニア全体の人気も、逗まるところを知らないほど上昇し続けていました。

滝沢秀明さんは、嵐を結成する時にも深く関わっていました。ジュニアから5人も出ていくため、その後のジュニアをどうするか・・・そんなことをジャニー喜多川氏と相談しながらやっていたそうですよ。とにかく滝沢秀明さんとジャニー喜多川氏の関係は深いものだったと言う。

滝沢秀明さんはドラマでも視聴率を稼ぎ、取材や歌番組などに次々と出演していますが、本人でさえ、その日何をするのかもわからないほどのハードスケジュールを、20才ころまでこなしていたそうですから、心身ともにタフでなければ務まりません。

その当時のことを振り返った滝沢秀明さんは「とにかく何処へでも自分で出向き、どんな「お題」が出ても、その場で全力をかけてやりきる対応力が身につきました」と話しています。

本名  :滝沢秀明(たきざわ ひであき)。
愛称  :タッキー。
出身地 :東京都八王子市。
生年月日:1982年3月29日。
身長  :169センチ。
血液型 :A型。

「タッキー&翼」としてのCDデビューは2002年。今井翼とコンビを組んでからも、後輩の相談に乗ったり、飲みに連れて行ったりしていましたが、その頃からネット「滝CHANnel」もやっていて、ジュニアの出演動画の演出やプロヂュースをしています。滝沢秀明さんが演出を手掛ける舞台では、労力を惜しまずジュニアの見せ場もしっかり作っていました。

滝沢秀明さんが面倒見がいいことは評判。まず何よりも話を聞くことを大切にしているし、後輩とも頻繁にご飯にでかけています。舞台共演が多かったKis-My-Ft2の北山宏光さんの言葉を借りると、滝沢秀明さんの「舞台のギャラ分と同じくらいごちそうになった」と話しているそうですね。

また ジュニアに入りたての少年だったHey!Say!JUMPの八乙女光さんがが、学校帰りに「ヒマなんですけど」と電話をしても、滝沢秀明さんは面倒がらずにきちんと応対してくれたと証言しているそうです。普通なら「自分で何かやることを探せ」と却下されそう。

滝沢秀明さんが人との対応で心がけているのは、たとえ相手が後輩であっても、一人の男として接していて、対等な関係でいることことに気を配っています。さらに「今言ってあげることが必要」・・・だと言うタイミングを逃がさないようにしているのだとか。

しっかりと相手の様子を見ながら、その人の「いいところ」を伸ばすためのアドバイスをしているのです。だから『オレのときはこうだったんだよ』などと言う言葉は、決して使わないと言う。それは、「自分の考え方を押しつけないようにしよう・・・って気を付けている」からだと言います。

滝沢秀明さんは人と接するときには、決して怒らない・・・というのが基本姿勢。
「僕はプライベートでも、感情をバーッと出すことはないんです。負けですよね。仕事だろうとプライベートだろうと、感情的になった時点で。ほえたら負け」

感情的にならずに適切に後輩を導くことができる真の「大人」・・・滝沢秀明さんは常に周囲から頼られていますが、滝沢秀明さん自身には相談したいとき頼れる先輩がいませんでした。だからこそ、ジュニアを卒業してからも尚、頼られる先輩であり続けけました。

まとめ!

滝沢秀明さんは、鉛筆や消しゴムすら満足に買えない極貧生活を送っていました。食べるものが無く、帰りの遅い母が返ってくるのを待ちながら、ひとつのお菓子を兄弟で分け合い、それが食事代わりになった日は数え切れないほど・・・ありました。

中学生になった頃には「どうやったら子供でも働けるんだろう」と、毎日のように、貧しい暮らしから抜け出せる方法を考えてばかりいた滝沢秀明少年。

その当時、滝沢秀明少年が憧れていたものが・・・
イメージからかけ離れているので少なからず驚きますが、何とプロレスラーに憧れていたらしいのです。中学生になった時、自立を考えていた滝沢秀明少年は、プロレス団体に「入団条件」を問い合わせていたのです。しかし、身長も体重も全く足りず「断念」せざるを得ませんでした。

噂によれば、滝沢秀明少年はジャニーズ事務所だけではなく、他の芸能事務所にも応募していたそうですが、一番早く連絡が来たジャニーズ事務所のオーディションを受けたのだとか。貧しさから抜け出すために何とかしたい・・・そう思って送った一枚の写真が人生をかえたのです。

そして現在はジャニーズ事務所の副社長を努めながら、ジュニアの育成を担う、株式会社「ジャニーズアイランド」の代表取締役社長も努めるなど、多忙を極めています。健康に気をつけながら頑張って欲しいですね。

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