箱根駅伝の創始者は 金栗四三!日本初オリンピック選手で加納治五郎を師と仰ぐ!

ご覧になってましたか・・・NHK「いだてん~東京オリンピック噺~」の初回を。
「金栗四三はまだ出てこないの?」と、 中村勘九郎さん演じる金栗四三の登場を待ち構えていた方は、きっと沢山いらっしゃったでしょうね。

頭から流血?したような金栗四三(勘九郎)が、やっと登場したのがクライマックスシーン!だったのですが、雨で帽子の塗料が流れ落ち顔にたれて、頭から流血しているように見えたのです。

わたしは、時間のことをあまり気にとめていませんでしたが、金栗四三が登場したのは、放送開始から54分も経っていたらしいのです。「そうだったの。ずいぶん遅いとは思ってたけど」と言う感じ。

ドラマでは、ストックホルム五輪に向けたマラソンの予選会で、金栗四三が頭から流血したような状態で、雨の中をトップでゴールに飛び込んできたのです。

1912年に日本はストックホルム大会で五輪に初参加していますが、1964年の東京五輪までの半世紀が描かれたドラマが「いだてん~東京オリンピック噺~」です。

あなたは金栗四三のことをご存知だったでしょうか。
金栗四三のことは知らなくても、グリコの看板をご覧になったことはありますよね。実は、金栗四三はあの看板のモデルだと言われているそうです。

金栗四三は日本マラソンの父と称されていますが、関東の各大学が凌ぎを削る「箱根駅伝」の創設者だと言うことをご存知だったでしょうか。

また、金栗四三が「いだてん」と呼ばれるようになった所以は、熊本での少年時代に学校まで毎日、往復12キロを走って通学していました。それがいつしか「いだてん」通学と呼ばれるようになったからでしょうね。

日本初の五輪選手になった金栗四三ですが、最初は軍人に憧れ続けていました。しかし海軍兵学校を受験しても不合格に終わり、体を鍛えても駄目なのかと落ち込んでいたと言うのです。そんな金栗四三を励ましたのが幼馴染のスヤでした。後にスヤは金栗四三の妻になっています。

海軍兵学校を不合格になり落ち込んでいた金栗四三が、どのようにして、日本人初の五輪選手になり、箱根駅伝の創設者となったのか・・・金栗四三の歩んだ道のりを辿ってみたいと思います。

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当時五輪選手に補助金はなく自腹!運よく寄付金でまかなえた!

嘉納治五郎は国際オリンピック委員会(IOC)の委員に選出され、日本もオリンピックに参加するように求められます。しかし、IOCの要請に対して日本政府は動かず、オリンピックへの参加は簡単には進みません。

それでも嘉納治五郎は諦めず、予選会の準備と選手の招集に奮闘。そしてようやくオリンピック予選会が開催されることが決まりました。

1911年(明治44年)に、翌年に開催予定の、ストックホルムオリンピックに向けた予選会が行われ、金栗四三は、当時の世界記録を27分も縮めるかたちで優勝しました。(記録2時間32分45秒)

ただ、当時は大会によって走る距離が違っていたので、記録を縮めたといっても、今のように42.195キロと言う、同じ距離を走ったタイムではありません。しかし大記録だったので、金栗四三はオリンピック選手に選ばれました。

勿論その当時はマラソン用のシューズなどなく、金栗四三はマラソン足袋を履いて走っていました。マラソン足袋と言っても、足袋の裏にゴムをくっつけただけの履物で、マラソン中にゴムがはがれるというトラブルもあったそうです。

マラソン用シューズ


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金栗四三と一緒にオリンピック選手に選ばれたもう一人が三島弥彦(みしまやひこ)です。東京帝国大学に在籍するエリートでありながら、短距離のトップランナーでした。

金栗四三と三島弥彦はオリンピック選手に選ばれましたが、2人とも一度は辞退しています。何故なら、その当時の政府は補助金を出さなかったからです。スポーツへの理解の低さは勿論、おそらく文化というものへの理解が全くない時代だったのでしょう。

そのため、選ばれた金栗四三と三島弥彦は、渡航費など全て個人で負担しなければならなかったのです。それに加えて、この頃はまだ飛行機などありません。飛行機もない時代に、地球の裏側に自腹で行けと言われて、「ハイ」と言える人などいるはずもありません。

今の時代には「あり得ない」話ですけれど、そんな話がきたら全員が辞退するでしょうね。

それでも嘉納治五郎は、辞退した金栗四三と三島弥彦を必死なって説得しました。「黎明の鐘」になって欲しいと言ったのです。黎明(れいめい):新しい時代の夜明け・・・と言うような意味。
「黎明の鐘」になって欲しい・・・つまり、新しい時代の夜明けを告げる鐘を鳴らして欲しい」と言うことでしょうか。

嘉納治五郎の熱い思いを受け止めた金栗四三と三島弥彦は、オリンピックに出ることを了承。ついに日本初のオリンピック選手が誕生したのです。

オリンピックに向けた準備・・・これがまた大変だったのです。
まず最難関は、渡航費用を調達しなければならないこと。

金栗四三は、兄の金栗実次(かなくりさねつぐ)に渡航費用の1,800円を出して欲しいと頼みました。その頃の1,800円は、現在の金額で言えばおよそ500万円にもなる巨額です。

しかし兄の金栗実次は、弟がオリンピック選手に選ばれたことを大いに喜び、1,800円と言う巨額の渡航費用を用立てることを快諾しました。ところが、金栗四三がオリンピック選手に選ばれたことを聞きつけた有志者が、寄付金を集めてくれて総額1,500円にもなったのです。

また、金栗四三は英語を習得する必要がありましたが、運よく、アメリカ育ちの選手団監督夫人から学ぶことができたのです。最後にマラソン足袋に改良を加え、準備は完了。

初参加の五輪は体調管理に失敗!船と鉄道17日間旅で疲労困憊!

1912年(明治45年)日本選手団は、ストックホルムに向けて日本を出立したのですが、いやもう、それはそれは、大変な道のり!予想をはるかに超える苦難の連続だったようです。

そうでしょうね、だって飛行機がない時代だったのですよ・・・現在なら苦も無くたどり着けますけれどね。ストックホルムまで、移動の基本となったのが船と鉄道でした。船でウラジオストックまで行き、そこからシベリア鉄道で移動したのですが、何と17日間もの長旅でした。

この移動だけで、気力も体力も奪われてしまったかも知れません。船と鉄道での移動も、現在のような楽な椅子ではなく、堅い背もたれに、堅い座面だったでしょうしね。睡眠さえまともに取れなかったのではないでしょうか。想像しただけでも疲れてしまいそう。

日本選手団の大森兵蔵監督は、肺結核を患っていて、ストックホルムに着くと悪化してしまいました。健康な人でさえ疲労困憊する長旅ですから無理もありません。金栗四三は練習どころか、看病の手伝いをしなければならなかったらしいのです。

1912(明治45)年、第5回オリンピック ストックホルム大会が開催。オリンピックの舞台に初めて日の丸が掲げられました。しかし、マラソン競技当日は40度と言う大変な猛暑で、参加した選手68人中34人が棄権するという惨憺(さんたん)たるありさま。

金栗四三も猛暑のため熱中症になって、意識がもうろうとなって走れなくなり、近くのペトレ家で介抱されていました。金栗四三が目を覚ましたのは、何と翌日になっていたと言います。マラソンの大会会場に戻って来なかった金栗四三は「消えた日本人」として噂になっていたそうです。

悲惨なのはポルトガル選手の1人が死亡したこと。想像を絶する過酷なレースだったことがわかります。このような状況でしたから、金栗四三が倒れても不思議ではありません。

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金栗四三がこのような結果を招いた要因は、40度の猛暑だけでなく、いくつかの問題点がありました。最大の要因は体調管理だったと思われます。

  • スウェーデンにはお米がなかった。
  • 持っていくことも輸送することもできなかった。
  • 十分な栄養が取れず、万全な状態でなかった。
  • 白夜で、睡眠障害を起こし、睡眠不足のままの参加となった。
  • 船とシベリア鉄道で17日間の行程は体力を消耗させた。

また、初めての参加だったこともあり、段取りに不手際があったのでしょう。レース当日、迎えにくる予定になっていた車が到着せず、金栗四三は、スタート地点まで走っていかなければならなかったのです。もう、それだけでくたくたです、気温40度ですよ。

一緒に参加した三島弥彦ですが、100メートルと200メートル共に一次予選で敗退しました。この時三島弥彦は、自己新記録というベストな走りをしていたのです。それでも全く歯がたたなかった。そして400メートルは体力の限界で途中棄権しています。

準備不足や体調管理の問題もありましたが、世界の壁の高さを肌で感じた五輪でもあったのです。嘉納治五郎はこの大会における成果や意義の大きさを誰よりも強く感じていました。

また、選手団監督の大森兵蔵氏は病状が悪化したまま回復することなく、再び日本の地を踏むことはありませんでした。船と鉄道17日間の行程が命を縮める引き金になってしまったのでしょうか・・・

金栗四三は日本初の五輪選手!「箱根駅伝」創設者!

金栗四三は帰国すると一段と練習に励むようになり、当時の日本では珍しかった舗装道路を見つけると走り込みをしたり、猛暑を想定した練習なども行い、たゆまぬ努力をしていました。

ストックホルムでは、文化や環境の違いに戸惑いがあったので、ベルリンオリンピックに向けて、ドイツ語の習得は勿論、洋食に馴染む努力もしたし、ベッドにも慣れるように訓練していたのです。しかし、ベルリンオリンピックは第一次世界大戦のために中止となってしまいました。

さぞ、がっかりしたでしょうね。ベルリンオリンピックに出場するため、すべてをかけて準備をしてきたのですから。金栗四三から悩みを打ち明けられた嘉納 治五郎は、教員として務めながら練習するよう助言しています。

金栗四三は、鎌倉の神奈川師範学校で1年間教員を務めた後、独逸(ドイツ)協会中学に5年ほど勤務しています。その間もマラソンの練習をしながら、スポーツ振興の活動にも精力的に貢献していました。

1917年には東海道駅伝徒歩競走の開催に尽力。京都三条河原から東京まで約508キロの駅伝が行われ、金栗四三本人も関東組のアンカーとして走っています。

1920年(大正9年)第1回箱根駅伝が開催されました。東京箱根間往復大学駅伝競走です。学生マラソンランナーが最大の目標としている箱根駅伝は、ここから始まりました。金栗四三は、この伝統ある箱根駅伝を立ち上げた人なのです。

初めての・・・第1回箱根駅伝の優勝校は東京高等師範学校(現在の筑波大学)でした。
このときの参加校は東京高等師範学校(筑波大学)、早稲田大学、慶応大学、明治大学と4校でした。わずか4校だったのですね。今では誰もが知っている「箱根駅伝」、新年を祝う伝統行事のようになっていますけれど。

そして、箱根駅伝最優秀選手賞「金栗四三杯」ができたのは、第80回大会からです。箱根駅伝最優秀選手賞「金栗四三杯」は、最も活躍した選手に贈られています。

世界に通用するランナーを育成したいと言う、金栗四三の想いが宿っているカップは、1911年のオリンピック国内予選大会で金栗四三が手にした優勝カップの複製。

「金栗四三杯」の受賞者は区間賞を取った中から選ばれています。5区の区間賞を取ったランナーが一番多く、2004年から2018年までの15回の内、9人が5区で区間賞を取ったランナーです。

最多受賞者は、2005年から3年連続区間賞の今井正人選手(順天堂大学)と、2009年、2010年、2012年の3回区間賞を取った柏原竜二選手(東洋大学)の二人。
その他にも佐藤悠基選手(東海大学)や神野大地選手(青山学院大学)なども受賞しています。

第1回箱根駅伝が開催された年にも、金栗四三自身は、ベルギーアントワープオリンピックに参加(二度目)していますが、この時30歳でした。ストックホルムでの経験を踏まえて、選手の全てが、文化や環境の変化に対応して快適な状態で競技に臨めるように貢献しました。

その結果、この大会で日本人初となるメダリストが誕生しました。男子テニスの熊谷一弥選手と柏尾誠一郎選手の二人。もちろん金栗四三本人もマラソンに参加しました。一時は5位まで順位を挙げましたが、足に痛みが出て16位で終了しています。

この頃から金栗四三は、女性のスポーツ参加を積極的に考えて嘉納治五郎に相談。そして東京女子師範で教鞭を取っています。当時の日本は女性がスポーツすること自体に消極的で、教育に関しても女性が大学に進学することは珍しい時代でした。

金栗四三は、特にテニスに力を入れ、日本の女子テニスの種をまき、育てる役割を果たしました。

1924年(大正3年)パリオリンピックにも金栗四三は参加しています。予選会で若い選手が振るわず、ピークを過ぎた金栗四三が優勝したため、パリオリンピックに参加したのですが、猛暑に勝てず30キロ地点で途中棄権して終了・・・

思うような成果は得られないまま、金栗四三のオリンピックは終わりを告げました。しかし、金栗四三がスポーツ界に残した足跡の大きさは計り知れません。

東京女子師範を退職した金栗四三は地元熊本に帰省し、地元のスポーツ振興に貢献していました。そんな時、嘉納 治五郎から連絡が入ります。昭和15年(1940年)の東京オリンピック開催が決定したので、準備を手伝って欲しいという要請でした。

しかし、嘉納治五郎が急死してしまったのです!! あまりにも突然でした。嘉納治五郎の後を引き継ぎ、陣頭指揮をとる人物がいないかったことから、東京オリンピック開催は見送られたのです。

まとめ

日本で初めてのオリンピック選手になった金栗四三は、数々の経験を活かしオリンピック選手を盛り立て、日本のスポーツ振興のために貢献しています。さらに関東の大学が、シード権を目指して凌ぎを削る「箱根駅伝」の創始者でもあるのです。

オリンピックも箱根駅伝も、金栗四三抜きでは語れません。今では「箱根駅伝」のシード権を手に入れるために、創意工夫しながら大学陸上部全体が一丸となり、練習に明け暮れています。また、マラソンの強豪高校の有名選手たちは、「箱根駅伝」に出たくて、関東の各大学に入学してくるほどです。

金栗四三が種をまいたオリンピック。今では上位入賞などではなく、金メダルを狙う種目も増えたし、マラソンも日本新が次々更新されるなど、金栗四三がつくった土台は、ますます強固なものになりました。

金栗四三が力を入れていたテニスも、錦織圭選手や大坂なおみ選手など、世界と互角に戦える選手が育ち、また卓球では若い選手がどんどん力をつけて、中国選手を脅かすような存在となっています。金栗四三がまいた種が大きく、華やかに花開いているのです。

金栗四三は熊本に帰郷してから、熊本県体育協会の設立に力を注ぎ、翌年初代会長に就任。1948年には熊本県の初代教育委員長に就任しています。また綬褒章、勲四等旭日小綬章なども受章しました。

金栗四三が75歳になった1967年、ストックホルムオリンピック委員会から、第5回オリンピックの55周年記念祝賀行事に招待され、大観衆が見守る中ストックホルムスタジアムを10m程走り、ゴールテープを切りました。

ストックホルムオリンピック委員会は、金栗四三が果たせなかったゴールインを、祝賀行事で行う計画をたて、スタジアムに正式なゴールテープを用意。金栗四三は両手をあげてゴールテープを切ったのです。

このとき会場に場内アナウンスが流れました。
「日本の金栗四三選手、ただいまゴールインしました。タイム54年と8ヵ月6日5時間32分20秒3、これをもちまして、第5回ストックホルムオリンピック大会の全種目を終了致します」と。

金栗四三は、東京高等師範を卒業した4月、親戚筋の池部家の養子となり春野スヤさんと結婚。22才でした。6人の子供(男の子4人で女の子が2人)に恵まれています。

92歳で入院した時お見舞いに来た教え子達に、金栗四三が言った言葉は、
「私は、オリンピックで、ついに優勝ばできんかったとじゃ。ばってん、あの第5回ストックホルムの大会に出場したオリンピック選手は、みな、亡くなってわし一人になったとじゃ、長生き競争には、わしが一番たい。はっはは」でした。

和水町中林には、金栗四三が生まれ育った生家が、築200年以上たった今も尚現存しています。
当時の金栗家は十五、六代もつづいた村の旧家でした。

ここでは、和水町が所蔵している金栗四三の遺品や写真の展示をはじめ、この場所でしか見ることができない映像や体験コンテンツをとおして、金栗四三の人物や功績スピリットなど、金栗四三の魅力を肌で感じることができるでしょう。

金栗四三の生家画像元のアドレス :https://is.gd/qvXynV

金栗四三の生家には、玄関土間の横に家族が「学校部屋」と呼んでいる四三専用の部屋があります。

わずか二畳間ほどの小さい板張りの部屋ですが、金栗四三は、表の格子戸側に向けて机を置き、声を張り上げて文章を読んでいたそうです。この部屋には、高等小学校を卒業するまで六年間の思い出が、ぎっしり刻み込まれているのです。

金栗四三が生まれたのは、1891(明治24)年8月20日です。熊本県玉名郡春富村(今の和水町)で、8人兄姉の7番目として生まれました。四三という名前は、父親が43歳だったからという理由で付けられたそうです。

金栗四三は虚弱体質だったそうですが、小学校に入る頃には元気になり、地元の吉地尋常小学校に入学しています。そして10歳の時、玉名北高等小学校に入ると、家から学校まで往復12㎞の距離を毎日、上級生や友達と走って通学していました。

金栗四三は走って通学を続けているうちに、あることに気がついていました。それは、2回吸って2回吐くという呼吸法で走ると苦しくないということに・・・これが、のちの金栗四三を作り上げる原動力となった呼吸法だったのですね。。

毎日学校まで往復12キロを走る通学は、いつしか「いだてん」通学と呼ばれるようになります。

軍人に憧れ続けていた金栗四三は、海軍兵学校を目指し受験したのですが不合格の通知。不合格になった原因は、過去に患った結膜炎だったとか。

海軍兵学校を受験し、失敗した後、中国に渡りたいと考えていたようですが、東京高等師範学校(今の筑波大学)に進学することにしました。1910(明治43)年のことです。

入学した東京高等師範学校で開かれた長距離走大会で3位になった時褒めてくれたのが、金栗四三の運命を大きく変えた、嘉納治五郎(講道館の創設者)だったのです。

金栗四三が師と仰いだ嘉納治五郎との出会いがなければ、オリンピック選手にならなかったかもしれないし、「箱根駅伝」も創設されていなかったかもしれません。

金栗四三が生まれ育った生家が、築200年以上たった今も尚現存し、「金栗四三生家記念館」となっています。アドレスをクリックして下されば、詳細がわかります。https://is.gd/G71x8g

九州熊本は遠いので中々行けませんが、「箱根駅伝」が大好きなわたしとしては、旅に出るチャンスがあれば、一度は訪れてみたいな・・・と思っています。

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