2024年に新札を発行し、新札の顔も決まったことが発表されました。

壱万円札は渋沢栄一氏:近代日本経済の父と呼ばれている方。
五千円札は津田梅子さん:日本で初の女子留学生としてアメリカで学んだ方。
千円札は北里柴三郎氏は:破傷風の治療法を開発した細菌学者。

今回は、五千円札の顔になる津田梅子さんのことをお話したいと思いますが、津田梅子さん・・・名前を聞いてもピンときませんよね。でも、津田塾大学の創始者だと言えば「あっ、わかった」と誰もがうなづくと思います。今で言えば帰国子女のはしり・・・でしょうか。

日本の教育者で、女子教育の先駆者とも言われている津田梅子さんですが、何しろ、岩倉使節団に随行だとか、戊辰戦争があった時代のことですからね。知る人ぞ知るで・・・一般的にはあまり知られていないのではないでしょうか。

津田梅子(つだ うめこ):最初は「うめ」でしたが、1902年(明治35年)に「梅子」にされたそうです。
生年月日:1864年12月3日(元治元年)。
出身地 :東京都新宿区(現在の地名)。
今を去ること150年も前に、津田 仙氏の次女として生まれています。

梅子さんの父(元軍人)津田 仙氏が、北海道開拓使次官の黒田清隆氏と知り合ったことにより、梅子さんの人生・・・と言うか運命がほぼ決まったと言います。

黒田清隆氏は、女子の教育に大変関心を持っていた方ですが、それに共鳴した津田仙氏(梅子の父)は、まだ7才だった津田梅子さんを海外留学させると決めてしまったのです。満7才と言っても、まだまだ親に甘えたい年頃の梅子さんに、どのような説明をして納得させたのでしょうね。

父親が決めたことなので従ったのかどうか、そのあたりは今の時点ではわかりません。とにかく津田梅子さんは、岩倉遣欧使節と一緒に、海路はるばるとアメリカに向かって旅立ちました。

しかし、驚きますよね。今から150年近く前の日本から海外留学してたなんて・・・しかも、わずか満7才ですよ。凄いと思います。決めた父親も、留学した娘も!

アメリカでは画家のチャールズ・ランマンという方の家に預けられて、英語やピアノを習いながら、アメリカでの生活にドンドン慣れていきました。何事につけても飲み込みも早かった上に、好奇心旺盛な7才と言う年令が幸いしたとも言えるでしょう。

ただ、少し困ったことも出てきました。アメリカの生活になじむにつれて、日本語を使わなくなり、日本にいる父親への手紙も英語で書くようになっていました。そうですよね、だって、日本語を話す相手がいないのですから。

でも、わたしなどからすれば、幼いころから留学できるような環境が羨ましい。子供の頃から漠然と海外で暮らしたいなんて思っていましたからね。

この先、津田梅子さんは、海外でどのような生活をされていたのか、また、帰国後、津田塾大学の創始者となるまでに歩まれた道筋などを調べてみましょう。

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津田梅子は海外で生涯の友となる山川捨松と出会った!

アメリカでは画家のチャールズ・ランマンという方の家で暮らす津田梅子さん。14歳で私立女学校へ進学した津田梅子さんは、語学・英文学・自然科学・心理学・芸術などを学びました。

津田梅子さんが17才になった時、日本から帰国命令が出たのですが在学中だったため、延長を申請したそうです。同時に延長申請をしたのが山川捨松さんでした。捨松と聞けば男性だと思いますが、女性なのですよ。

津田梅子さんは山川捨松さんとは生涯の友となるのですが、海外時代から一緒に行動するなど、大変仲が良かったのです。帰国してからも山川捨松さんは津田梅子さんに協力しています。

満11歳になっていた山川さきさんは、女子留学生募集に応募して海外へ旅立ちますが、横浜港から船上に向かう山川さきさんを、母親が改名させました。10年もの間海外で暮らすことになる娘を、「一度、捨てたと思って帰国を待つ(松)のみ」と言う思いから、捨松と改名させたそうです。

山川捨松(やまかわすてまつ):のちに結婚して大山 捨松(おおやま すてまつ)となります。
生年月日:1860年3月16日(安政7年2月24日)
出身地 :会津若松。

山川捨松さんの父は、会津藩の国家老で山川尚江重固(なおえ しげかた)。
会津戦争で、近代装備を取り入れた官軍の圧倒的な戦力の前に会津藩は抗戦むなしく降伏しています。この戦争で8才だった山川さきさん(改名前)も、会津若松城に籠城したのだとか。

この後、山川さきさん(捨松)は、函館の沢辺琢磨の里子になり、その紹介でフランス人の家庭に引き取られて育てられました。さきさんは利発で、フランス人家庭での生活を通じて西洋式の生活習慣にもある程度慣れていたので、海外留学は苦にならなかったでしょう。

津田梅子さんは、画家のチャールズ・ランマン夫妻に連れられて、休暇の旅に各地を旅行していますが、旅行には山川捨松さんと、捨松さんのホームスティ先の娘アリスも一緒でした。アメリカで楽しい青春時代を送っていたのですね。

古い結婚観イヤで生涯独身貫く!伊藤博文に英語教え下田歌子に日本語習う!

津田梅子さん、山川捨松さん達が帰国したのが1882年(明治15年)だったそうです。しかし青春時代を、海外の自由な雰囲気の中で暮らしてきた彼女たちにとって、まだまだ封建時代から抜け切れていない日本は、暮らしにくい国だったのです。

せっかく身につけた西洋の学問や生活習慣などの高い見識を、活かせる場所など日本にはありませんでした。山川捨松ともう一人の女子留学生の永井繁子は軍人に嫁ぎましたが、梅子は日本での古い結婚観にほとほと嫌気が差して、生涯独身を貫くことを決めていました。

縁談について「結婚の話を聞くだけでも嫌だ」と書いていたと言いますから、次から次へと、縁談が持ち込まれたのでしょう。明治時代の結婚観・・・よくはわかりませんが、アメリカで学んだことが水泡に帰すような虚しさを感じていたのではないでしょうか。

そんな津田梅子さんに、外務卿(現在では外務大臣)から、夜会の招待状が届きました。この夜会で、伊藤博文氏から紹介されたのが下田歌子さんですが、桃夭(とうよう)女塾(後の実践女子大)を開いて数年目。まだまだ人材がほしいと思っていた頃でした。

下田歌子さんは1981年に、上流家庭子女に純日本的教養を与える桃夭(とうよう)女塾を開設,賢母良妻の育成に努め、華族女学校開設(1885)にも参与し、1907年まで皇女・貴女教育に従事しています。

下田 歌子(しもだ うたこ)
生年月日:1940年8月5日 。
後に学校法人城東学園理事長として、弘前医療福祉大学・弘前医療福祉大学短期大学部を運営。
さらにその後、日本の政治家となり、民主党所属の第1期の元参議院議員をつとめました。

津田梅子さんは、伊藤博文氏や桃夭女塾の生徒たちに英語を教えながら、下田歌子さんから日本語を教わっていました。このような努力が伊藤博文にに認められ、華族女学校の英語教師にも推薦されています。

ただ、華族(元公家・元武家)のお嬢様が通う学校ですから、因習にとらわれない自由なアメリカ育ちの津田梅子さんは、最後まで馴染めなかったようですね。

まだ庶民と華族の間には隔たりが高い時代でしたから尚更だったでしょう。海外生活の長い津田梅子さんにしてみれば、不思議な感覚だったかも知れません。今でさえ、海外から訪れた方は、日本の風習を「おかしい」と感じるようですから。

再度の留学で、やるべき目的見つけた津田梅子!

24歳になった津田梅子さんのもとに、アリス・ベーコンが来日。チャールズ・ランマン夫妻に連れられて、一緒に旅を楽しんだ留学時代の仲間です。留学を勧められて2回目の渡米を決意。運よく、父のツテで留学と学費免除を取り付け、再度渡米して生物学を重点的に学んでいます。

大学から「ここに残って研究を続けたらいいじゃないか」と言われたほど成績は優秀だったようです。しかし、再度のアメリカ生活で、やるべき目的を見つけ出した津田梅子さんは、誘いを断って3年で帰国。

最初の帰国で、日本女性の置かれた現状を知り得た上で、再度留学したので、女子教育が如何に重要であるかを切実に感じたものと思われます。

帰国後は再び華族女学校に勤めながら、明治女学院でも講師を務め、自宅に女学生を預かるなど、女子教育の支援を積極的に行いはじめた津田梅子さん。

34歳になって、女子高等師範学校教授を兼任。アメリカでは、日本女性の代表として万国婦人クラブ連合大会で挨拶したり、ヘレン・ケラーを訪ねるなど忙しく飛びまわっています。また、イギリスに招かれてフローレンス・ナイチンゲールやヨーク大主教と会見するなど、多忙を極めていました。

ヘレン・ケラー、フローレンス・ナイチンゲール、ヨーク大主教なんて、教科書や書籍の中で見ただけの方々。津田梅子さんは、生で会って話をしていたのですね。やはり歴史をかんじますね。

津田梅子さんが35才になった時、日本で高等女学校令、私立学校令が公布されました。法的に女子教育の足がかりをつかんだ津田梅子さんは、今まで講師や教授をしていた全ての学校を辞任。

父やアリス・ベーコン、大山捨松(山川捨松)らの協力を得て、「女子英学塾:現在の津田塾大学」を設立。ここで津田梅子さんは、「身分にとらわれない女子教育」を実現すべく邁進していきます。

それまで女性への教育というと、学問というより教養面が重視されてきました。しかし津田梅子さんは、女性が社会に貢献したり、独り立ちできるようになるための、実用的な教育を行ったのです。あまりの厳しさに逃げ出した学生もいたと言います。

津田梅子さんは一つ問題を抱えていました。何故なら、教育方針に対して外部から干渉されることを嫌い、スポンサーを探さなかったのです。開校当時は、津田梅子さんたちは無償で授業を行い、資金不足を補っていました。

ところが、学生が増えて教師が増えてくると、今までのようなわけにはいきません。それでも、1903年(明治36年)に、専門学校令が公布されたので、申請して塾を社団法人にしたことで、かなり楽になったのです。

津田梅子さんは1919年(大正8年)健康上の理由で塾長を辞任。学校は後進に任せました。そして鎌倉の別荘で療養していましたが、10年後の1929年(昭和4年)脳出血のため、64歳で亡くなっています。

後に、津田英学塾と改名し、戦災によって校舎を失いながらも、津田塾大学として今に続いています。現在では、女性が教育を受けることも、社会に出て自立することもごく当たり前になりました。

まとめ

2024年に新札を発行し、新札の顔も決まったことが発表されました。

壱万円札は渋沢栄一氏:近代日本経済の父と呼ばれている方。
五千円札は津田梅子さん:日本で初の女子留学生としてアメリカで学んだ方。
千円札は北里柴三郎さんは:破傷風の治療法を開発した細菌学者。

五千円札の顔になる津田梅子さんは、津田塾大学の創始者です。今で言えば帰国子女のはしりでしょう。日本女性で初めて、海外留学をされたのが津田梅子さんでした。

日本の教育者で、女子教育の先駆者とも言われている津田梅子さんですが、何しろ、岩倉使節団に随行だとか、戊辰戦争があった時代のことですからね。知る人ぞ知るで・・・一般的にはあまり知られていない方。

津田梅子(つだ うめこ):最初は「うめ」でしたが、1902年(明治35年)に「梅子」に改名されたそうです。
生年月日:1864年12月3日(元治元年)。
出身地 :東京都新宿区(現在の地名)。
今を去ること150年も前に、津田 仙氏の次女として生まれています。

津田梅子さんは満7才の時、岩倉遣欧使節と一緒に、アメリカに向かって旅立ちました。アメリカでは画家のチャールズ・ランマンという方の家で暮らす津田梅子さん。14歳で私立女学校へ進学した津田梅子さんは、語学・英文学・自然科学・心理学・芸術などを学んでいます。

山川捨松さんとは生涯の友となるのですが、海外時代から一緒に行動するなど、大変仲が良かったのです。帰国してからも山川捨松さんは津田梅子さんに協力しています。

伊藤博文氏や下田歌子さんと知り合い、英語を教えるなどして、教育に携わっていきます。2度目の海外留学では、自分のやるべき目的を見つけ、帰国後は積極的に教育家としての道を歩き、津田塾大学の創始者となりました。

戦災によって校舎を失いながらも、津田塾大学として今に続いています。現在では、女性が教育を受けることも、社会に出て自立することもごく当たり前になりましたが、これらの礎を築いたのは津田梅子さんだったと言えるでしょう。

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