10代の特攻隊員が残した遺書! 残された家族を思いやる心に泣ける!

特攻隊・・・聞いたことはあっても、一握りの方々を除き知らない方がほとんどですよね。もちろんわたしも、そしてあなたも・・・

一握りの方々も詳細は知らないと話されるほど、遥か昔のことですけれど、時代は違っても悲しみは変わりません。遺書を読んで涙しない方はいない・・・でしょう。

特攻隊の多くは10代の若者だったと言われていますが、「国のため」に若い命を、一瞬の突撃にかけて飛び立っていきました。失われた特攻隊員の尊い命・・・最終的には6千人を超えていたと言われています。

飛び立つ前夜に残した走り書きを含め、家族に残したメッセージが後日発見され書籍化されたものもありますが、残された家族の幸せを祈りながら飛び立って行った若者を思うとき・・・涙せずにはいられません。

18才で散った、ある特攻隊員の方が残した遺書(下記内容)は、西日本新聞の記事より抜粋させていただきました。 西日本新聞のアドレス⇒ https://is.gd/0nWREq

≪此(こ)の世に生を受けて以来、十有余年間の御礼を申し上げます。沖縄の敵空母に見事体当たりし、君恩に報ずる覚悟であります。お父さん、お母さん、そして姉さん、妹よ、泣かないで決して泣いてはいやです。ほめてやって下さい。家内揃(そろ)って何時までも御幸福に御暮らし下さい。後は御願い致します≫

この遺書は、特攻前日の1945年4月6日に書かれたものだと言いますが、出納帳のページを折って作った封筒に入っていたとか。

この遺書を残された特攻隊員の方を始め、120人以上の方が同じ宮崎基地から飛び立ち、敵機めがけて突撃・・・戦場の露となって散りました。1945年3月21日から2ヶ月の間に40機以上が飛び立って行ったそうです。

昭和は遠くなり・・・戦後73年が過ぎた今、戦争のことさえ遥か昔の出来事として忘却の彼方に消え去ろうとしています。

青春時代の楽しい「思い出」一つ持たずに、10代の若者の多くが「特攻隊」として飛び立ちこの世に別れを告げたことさえ・・・いつしか忘れられてしまうのでしょうね。

だからこそ、国のためとは言いながら、死を覚悟して飛び立った10代の若者「特攻隊員」が、どのようにして散っていったのかを、覚えていてあげたい・・・そんな思いにかられています。

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10代の特攻隊が背負った任務が過酷過ぎて泣ける!

特攻作戦が常態化され「特攻隊」となったきっかけが、1944年(昭和19年)の10月に編成された「神風特攻隊」だと言われているようです。

フィリピン・レイテ沖海戦で、海軍第1航空艦隊の志願者24人が「神風特攻隊」として編成されたそうです。「神風特攻隊」は、爆弾を抱いて敵艦へ体当たり攻撃を仕掛けました。

これ以降「特攻隊」として続くようになり、最終的には「特攻隊」としての戦死者は6400人を越えていると言われているそうです。

特攻隊について記載されている記事によれば、特攻隊の任務は、下記のように過酷な突撃で体当たりするものばかり・・・でした。辛すぎます!

  • 250キロ爆弾や500キロ爆弾を抱えて敵艦に体当たりする航空機特攻。
  • 直径1メートル、全長約15メートルもの大型魚雷に操縦席を設けた人間魚雷「回天」に乗る特攻。
  • モーターボートに爆弾を搭載した水上特攻艇「震洋(しんよう)」に乗る特攻。
  • 爆弾を積みロケット噴射で滑空して体当たりする「桜花(おうか)」と呼ばれる特攻。

本当に痛ましく悲しい気持ちで、涙が止まりません。
「死」を覚悟して体当たり攻撃に行かなければならなかったなんて・・・辛すぎますよね。やはり、戦争は何としても避けなければならないと、心底思います。今の平和を守らなければと思いますね。

冒頭に挙げた手紙を書いた若者は、精神力が高く、心の奥に渦巻いていたであろう様々な思いを、微塵もみせず、後に残る家族の心情に思いを馳せ、悲しまないでと書き残していました。

人間ですから、心の葛藤が少なからずあった筈だと思います。でも、突撃していく自分が未練をみせれば家族がより一層苦しむと考えたのではないでしょうか。

宮崎基地のあった地域では、出陣していく人たちが民家に、分散して泊まることはごく当たり前の時代だったのですね。その地区にある「A家」に「特攻隊」と思われる方が、何人も泊まったと話されていました。

「特攻隊員」も人それぞれで、精神的に強い人もいれば、迫りくる死の恐怖のためなのか、昼間から酒を飲み酩酊する人も多く、緊張からか失禁したり、中には気を失う人もいたそうです。

そんな中、ある10代の3人組は、突撃前夜、ろうそくの灯りの中で静かに手紙を書いていたと言います。そして翌朝「お世話になりました。今から行って参ります」と、3人揃って笑顔でしっかりと礼を述べ、敬礼をして出て行ったのだとか・・・

まとめ

特攻隊の多くは10代の若者だったと言われていますが、「国のため」に若い命を、一瞬の突撃にかけて飛び立っていきました。失われた特攻隊員の尊い命・・・最終的には6400人を超えていたと言われています。

飛び立つ前夜に残した走り書きを含め、家族に残したメッセージが後日発見され書籍化されたものもありますが、残された家族の幸せを祈りながら飛び立って行った若者を思うとき・・・涙せずにはいられません。

1945年(昭和20年)8月15日正午、当時日本唯一の放送局だった社団法人日本放送協会(現在のNHKラジオ第1放送)昭和天皇による玉音放送(ぎょくおんほうそう)がありました。
玉音放送とは、天皇の肉声で放送すること。

この放送は、太平洋戦争における日本の降伏を日本国民に伝えるもので、日本ではこの玉音放送のあった8月15日を終戦記念日と呼んでいますが大戦終了を指すものではありません。第二次世界大戦が終結した正式な日付は、降伏文書が調印された1945年9月2日です。

ちょっと、気になる記事を見つけました。ある隊員の遺書が公開されていたのですが、驚いたのは、その遺書が書かれた日付です。遺書の最後に昭和20年8月14日と記されていました。

日付だけではなく、遺書の内容が気になったのです。8月15日には天皇による玉音放送があることを、軍の上官が知らないはずがないと思うのですが、それにも関わらず上官は、2日後に突撃する「志願者」を募っていたのです。

軍の上官は「敗戦であることはわかっているが、日本として最後の意地を見せるため」に突撃すると言うのです。いや、募ると言うよりも、なだめすかすような言葉で「志願者」として手を上げさせようとした・・・と言った方が正しいかも知れません。

♦なだめすかすとは、相手の心をやわらげて、自分に都合のいいようにしむけること。

遺書にはその時の、上官とのやり取りやご本人の心情などが、かなり詳しく書き留められていました。この遺書を残された方は、生き残った戦友が自分の生家を訪ねることがあれば、精一杯歓待して欲しいと言い残しました。

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